仏跡巡拝雑記
これは幸いにも元気で帰ることができたのでした。
よくお腹をこわしたりすることがあると聞いていましたが、十分に注意してきました。
特に現地の水は飲まないようにと言われていましたので、注意したおかげだと思いました。
また食事については、建仁寺の管長さまが行かれるということで、どこも良い宿泊施設を用意してくれ、食事に困ることはありませんでした。
日本食が恋しくなったのではと言われる人もいましたが、これについてはもうどこに行こうが、そこのものをおいしくいただくだけなのであります。
過去も振り返らないし、未来についてもあれこれ思わないという、禅的な考えが身についているからだとも思いました。
その時、その場になりきるだけなのであります。
白隠禅師が、七歳の時に休心坊というお坊さんから教わったのが「時ぎり場ぎり」ということでした。
「時ぎり場ぎり」というのは「即今当処、常に今ここを意識し、余念をまじえない」ことです。
その時かぎり、その場かぎりの出会いと感動を大切に生きるのが「時ぎり場ぎり」です。
たしかにインド滞在中は毎回カレーでありました。
それでもそのお店お店で工夫されたものですから、飽きることはありません。
毎回毎回おいしいと感謝していただくだけなのであります。
今まで食べてた和食を思い出すようなことはないのであります。
慣れない食事でたいへんだと思うかもしれませんが、これについては、作ってくださった方のご好意を思うのであります。
その土地その土地のものを心こめて調理して下さっているのですから、そのお心を有り難くいただくのであります。
黒住宗忠が、
なにごともありがたいにて世にすめば 向かうものごと みなありがたいなり
と詠われていますが、その通りであります。
好きだ嫌いだという、こちらのものさしを持たないことであります。
これは空の心に通じます。
こちらが空っぽになっていただくと、何でも有り難くいただくことができるのです。
空っぽになるというと、お腹を空っぽにすることも大事であります。
禅の教えに「飢え来たれば飯を喫し、困じ来たれば臥す」という言葉があります。
お腹がすいたらご飯をいただき、くたびれたら眠るということです。
これは実に禅の極意でもあります。
お腹がすいたらいただく、疲れたら寝る、これほど大事なことはありません。
今回の旅でもお腹が空かないなと感じた時には、一食抜いたりしていました。
そうしますとお腹が空きますから、その時にまたいただくのであります。
眠ることも大事であります。
よく枕が変わると眠れないという方がいらっしゃいます。
私はというと、枕を用いませんので、眠れないということはありません。
枕を用いないというのは、修行道場の習慣からきています。
坐禅堂で夜お休みすると、よく枕を禅堂の単から落っことしてしまうことがありました。
それで枕を使わなければ枕が落っこちることもないだろうと使わないことにしたのであります。
ですからどこでも寝られます。
あとは飛行機の時間も長く、また現地滞在の間も移動の時間がとても長くかかっていましたので、腰が痛くなったり、足がむくんだりしてしまうらしいのですが、これもだいじょうぶでした。
仏跡巡拝の初日は移動だけで終わりました。
二日目も午後までは移動時間でした。
あとインド滞在中は、朝早く六時頃にホテルを出て、七、八時間かけてバスで移動して午後現地に着いて参拝するという日程でしたので、大半がバスで移動していたのでした。
六日目も一日かけて移動して、六日目の晩飛行機に乗って、七日の朝日本に帰ったのでした。
飛行機やバスの移動で心がけたのは、イスの上でどう坐るかということでした。
背もたれに体を委ねると、腰が立ちません。
この点長らくイス坐禅にとりくんで来ましたので、イスの坐り方に気をつけていました。
なんとしても腰が立っている状態で坐ることです。
そして足で床を押せるようにして乗ることであります。
また足の指も絶えず動かすように意識していました。
おそらく背もたれに身を預けていると、腰も痛くなり、足もむくむのではないかと思いました。
やはり足に力を入れて、立ち上がれるような体勢でいることが重要であります。
腰を立てておいて、あとは車の揺れに身をませていると長時間乗っていても苦痛ではありません。
むしろ気持ち良く坐っていることができます。
やはり腰を立てて坐ることこそが安楽だと実感できました。
あとは、時差ぼけはだいじょうぶですかと聞かれました。
たしかに最終日は、夜飛行機に乗って、朝羽田に着きましたので、いつ寝たのか分からないような状態でありました。
しかし、もともとボケていますので、時差ぼけも気にならないのであります。
インドに行くと、また行きたくなる人と、もう二度と行きたくなくなる人とに分かれると聞いたことがあります。
私などは機会があれば是非もう一度と思いました。
あの混沌とした感じがなんとも言えません。
私がたずねた地域の町などは、あまり綺麗とはいえません。
道も舗装されていないところもありますし、牛がうろうろしています。
土ほこりがありますし、道にはみずたまりもできています。
私などがまだ子どものころもそんな光景が乗っていました。
懐かしい気がしたほどであります。
渾然とした感じなのです。
整然としていないと堪えられない人には苦痛だと思いますが、私などは、混沌としたところにこそ、勢いや生きる力を感じるのであります。
美は乱調にありです。
そんなことを思うと、やはりこだわらない、とらわれない空の心、お腹が空いたらご飯を食べ、くたびれたら眠るだけ、そして常に腰を立てるという禅的生き方が、インド仏跡巡拝でも大いに役立ったと感じたのでした。
横田南嶺