仏跡巡拝の旅 – その三 –
岩波書店の『仏教辞典』によると、
「インドのマウリヤ王朝第3代、アショーカ王(阿育王(あいくおう))が、領土内各地で石柱や磨崖、洞院に自らの統治理念を法勅(ほうちょく)として銘刻させたもの。
現在のパキスタン、アフガニスタンから南インドのカルナータカ州にかけて40数種が見つかっている。」
「即位第8年の東インド・カリンガ征服で死者数十万という悲惨な戦争を経て、アショーカ王は武力征服をやめ、法(ダルマ)、つまりインド古来の社会生活規範を重視した統治へと改めた。それを人民に宣布したのが<アショーカ王碑文」なのであります。
ブッダガヤにもこのアショカ王柱が残っています。
残念ながら柱頭部の彫刻は現時点では発見されていないとのことです。
紀元前三世紀の遺跡を間近に拝見できるというのは、それだけで感慨深いものですし、長年仏教を学んで来た私にとっては、今まで書物の上でだけ知っていたものが、目の前にあるのですから、感激でありました。
アショカ王柱の残る地点の近くに、ムチリンダ龍王の像が奉られる池があります。
今回の旅行会社で作ってくださったパンフレットには、
「お釈迦様の成道後5週目にブダガヤを暴風雨が襲いました。
その際ムチリンダ龍王はお釈迦様の体に7回巻きつき、7つの頭で天蓋をつくり、お釈迦様を風雨と寒さから守りました。
その後ムチリンダは人間になり、お釈迦様に帰依したといわれます。
ムチリンダ龍王は日本ではあまり知られませんが、 ガンダーラにも作品がありますし、アンコールワットやボロブドール等東南アジアの遺跡で、 多くのムチリンダ龍王像が発見されています。」
と書かれています。
この池を建仁寺の老師と眺めていました。
建仁寺の老師は、二十年前に仏跡巡拝をした折には、この池に感動されたと仰っていました。
そのあと、尼連禅河をわたって、スジャータの村をたずねました。
尼連禅河は、ナイランジャナーというブッダガヤの近くを北流してやがてガンジス河に注いでいます。
水は少なくて、今回訪れた時には、ほとんど水はないような状態でした。
お釈迦様は苦行に見切りをつけてここで沐浴して、更にスジャーターの捧げる乳糜という、牛乳で調理された食物をとって体力を回復し、菩提樹の下で坐って正覚を得られたのです。
スジャータの村は、 大菩提寺の東約三キロほどのところにあります。
村の東のはずれに大きなストゥーパーが残っていました。
このストゥーパーは、この地でスジャータによるお釈迦様へのミルク粥供養が行われた事を記念して8~9世紀建立されたとのことでした。
このあたりの風景は実にのどかなでありました。
今から二五〇〇年前のお釈迦様の時代に舞い戻ったような思いを抱きました。
そのあと、日本寺にお参りして、ホテルに入りました。
日本寺は今から五十年前に建てられたお寺です。
私の修行道場で修行していた加藤泰惇和尚が、数年前まで駐在僧としてお勤めになっていました。
ゆっくりとお参りしたいところでしたが、三拝だけさせてもらってホテルに入りました。
ブッダガヤのホテルで夕ご飯をいただいて、更に夜若手の和尚様方の発案で大菩提寺の大塔のところで夜の坐禅を行いました。
再びお釈迦様がお悟りをお開きになった場で、建仁寺の老師のお隣で、夜の坐禅をさせてもらって、言葉で表せない感動でありました。
かくして二日目の夜を終えたのでした。
三日目は朝早くにホテルを出て、お釈迦様がはじめてお説法をなされたサールナートを訪ねました。
初転法輪の地であります。
ブッダガヤから約二六〇キロの距離であります。
お釈迦様がお悟りを開かれて、はじめてお説法するところまで、随分と離れていることが分かりました。
ガイドさんが私たちに、「これから七時間車に乗って移動しますが、長いと思わないでください、お釈迦様が七日かけて歩かれたところを七時間で行くことができるのです」とお話くださいました。
まさにその通り、こちらは観光バスに乗せてもらうのですから、申し訳のないことであります。
少々道の混んでいるところもあって、八時間ほどかかってサールナートに着きました。
ここは、ヒンズー教の聖地だそうで、大勢の方がお参りになっていました。
仏教にとっても、初転法輪の地で大事な場所ですが、インドの国では仏教徒は少数であり、初転法輪の地にお参りするのは、ほとんどインド以外の国から来ているとのことでした。
悟りを開かれたお釈迦様ははじめお説法をするのをためらわれたのですが、梵天の勧請によって法を説くことを決意されました。
そして自分と一緒に修行していた五人の仲間に説こうと決意されてサールナートに行かれました。
五人の比丘たちは、苦行を捨てたお釈迦様を堕落した者だと思ってお釈迦様が来ても無視しようとしていましたが、お釈迦様の輝き威厳のあるお姿に打たれて法を聞かれたのでした。
その場所にダメークストゥーパが残っています。
ここで皆で読経しました。
あたりは、曽て寺院が建てられていた後の遺跡だけが残っていました。
これもカニンガムによって発掘されたのであります。
ここでもアショカ王柱を拝見できました。
三本に折れていたものです。
紀元前三世紀の文字がはっきりと見えました。
この文字の解読にかつて苦労されたのでした。
そしてその柱の柱頭部にあった、「柱頭部4頭獅子像」と呼ばれる、インドを象徴する彫刻が考古学博物館にございました。
これはインドの国宝の中でも最も重要なもので、インド政府の国章ともなっているそうです。
それからよく写真で拝見していた初転法輪像もここにお祀りされていました。
なんとも美しい仏像で、間近で拝むことができたのは感激でありました。
博物館を拝見したあと、周辺にあったと言われる寺院の跡地を歩いていました。
思えば仏教はこのインドの地で滅び、たくさんの寺も皆壊されてしまったのでした。
このこともまた、仏教の真理、諸行無常であることを最も端的に表わしています。
遺跡のあるあたりは広い公園になっていて、長閑な風景でありました。
かつて二千五百年前のお釈迦様のお説法に耳を傾けた思いに浸っていました。
横田南嶺