一を貫くものとは
『論語』には「子の曰わく、参よ、吾が道は一以てこれを貫く。曾子の曰わく、唯。子出ず。門人問うて曰わく、何の謂いぞや。曾子の曰わく、夫子の道は忠恕のみ。」
とあります。
岩波文庫の『論語』にある金谷治先生の訳を引用しますと
「先生がいわれた、「参よ、わが道は一つのことで貫かれている。」曾子は「はい。」といった。
先生が出てゆかれると、門人がたずねた、「どういう意味でしょうか。」
曾子はいった、「先生の道は忠恕のまごころだけです。」」
となっています。
忠恕の「忠は内なるまごころにそむかぬこと、恕はまごごろによる他人への思いやり」という意味です。
これは孔子と曽子の問答でありますが、子貢とも同じような問答があります。
「子の曰わく、賜や、女予れを以て多く学びてこれを識る者と為すか。
対えて曰わく、然り、非なるか。
曰く、非なり。予れは一以てこれを貫く。」
これも岩波文庫の現代語訳を参照しますと、
「先生がいわれた、「賜よ、お前はわしのことをたくさん学んで(それぞれ)覚えている人間だと思うか。」
〔子貢は〕お答えして、「そうです。 違いますか。」
「違うよ。わしは一つのことでつらぬいている。」
というところです。
ではその貫いている一つのことは何であるとかというと、これも子貢との問答にございます。
「子貢問うて曰わく、一言にして以て終身これを行なうべき者ありや。
子の曰わく、其れ恕か。己れの欲せざる所、人に施すこと勿かれ。」
「子貢がおたずねしていった、「ひとことだけで一生行なっていけるということがありましょうか。」
先生はいわれた、「まあ恕(思いやり)だね。自分の望まないことは人にしむけないことだ。」」
ということであります。
この一を貫くについては、今北洪川老師の『禅海一瀾』にも説かれています。
洪川老師の説については、盛永宗興老師の訳文を参照します。
「ここでいう「一」 は数の意味ではない。
凡そ道の本体は言葉では表現し難く、また、その作用は臆測し難い。
従って強いてこれを「一」といったのである。
釈尊も一音を以て説法され、老子も「一」を執って天下の民を牧し(化育し)、孔子はただ「一貫」を以て教えの趣旨を立てた。
私は以前、道を学ぶ者達に尋ねたことがある。
「『一』とは何か。地・水・火・風の四大元素でもなく、色・受・想・行・識の五蘊でもない。
しかも鼻の先にはっきりとあらわれている。
もしこの『一』をピタリといい得るならば、この孔子の『一貫』を徹見したとお前を認めよう」と。
しかし未だに一人もこの問いに答え得た者はいない。
宋代の儒者は曽参の「唯」という言葉を解釈して、「即座に師の言に応じて、疑いを挟まない意味である」とする。
一応尤もな解釈ではあるが、実はとりちがえている。
私はかつて長い間これに疑問をもっていた。三十一歳の時、岡山曹源寺の儀山老師のもとで「趙州万法帰一」の公案に辛参苦修し、この妙処を徹見して、曽参の内に秘めた道力が、山をも抜くほどのものであることを知った。
歓喜の余り、食べ物の味も覚えない日が幾日も続いた。
聖賢の機にかなった言葉というものは、まことに一語千金の重みがある。
孔子と曽参の問答の後、門人が孔子の「一貫」の意味を尋ねると、曽参はただ「まごころと思いやり (忠恕)」と答えた。
孔子に対するといい、問人に答えるといい、あるいは放ちあるいは奪い、曽参の働きの見事さはいいようもない。」
というものであります。
この一を貫く道とは何かということについて、釈宗演老師は『禅海一瀾講話』のなかで、『老子』の言葉を引用されています。
『老子』第二十五章に「物有り混成し、天地に先立ちて生ず。寂たり寥たり、独立して改まらず、周行して殆うからず。以て天下の母と為すべし。吾その名を知らず、之にあざなして道といい、強いてこれが名を為して大という」
とあります。
こちらは、『老子 全訳注』 (講談社学術文庫)にある現代語訳を参照します。
「何やら一つになって形成されているものがあって、それは天と地が生まれる以前から存在している。
ひっそりと静かで、清らかで深く、ただこれだけが一つしっかと自立して世界を成しており、ここにはまだ何の動きも兆していない。
天と地を生み出した母と認めることができよう。
わたしにはまだその名前が分からないので、仮りに呼び名をつけて「道」と呼ぶことにしておこう。無理に名前をつければ「 大きい」と呼んでもよいと思う。」
ということです。
この道について、宗演老師は講話の中で、
「平等的のものであるが、直ぐに差別の上に行われて居るのである。
これは私の蛇足を添えたのでありますが、そう言うて宜かろうと思う。 相対的の物かと言えば、そうでない。
独立して改めない。
それでは一切の現象から離れて独立的の物かと言えば、そうでない、何事にも行き渡って居る、地を這うておる蟻の鬚の様な小さなものにも、野原に咲いて居る名も無き小さな花にも行き渡って居る。
小さな花は小さな一つの天地を造って居る。
小さな蟻は小さな宇宙を含んで居る。
私は原文に就いて委しくは知らぬが、英国の詩聖なるテニソンは、一輪の花を知れば天地及び一切万物を知ると言うて居る〔新渡戸稲造「地方の研究」、「詩人テニソンは、小さな一輪の花を取って、 此花の研究が出来たら、宇宙万物の事は一切分かると言った」]。
矢張り「周ねく行われて殆からず」という意義であろうと思う。」
と説かれています。
この小さな一輪の花にも天地の道が行き渡っていると分かれば、その一輪の花を粗末にすることなどできなくなります。
どんな人であろうと、その人には、天地の道が行き渡って現れているのだと分かれば、まごころや思いやりをもって接することができるのであります。
この一を貫く道に気がついてこそ、まごころも思いやりも現れてくるのです。
横田南嶺