禅門の逸話を学ぶ楽しさ
一年間、無事に学ぶことができたことに感謝します。
年末最後の会にも平林寺の老師や大乗寺の老師もお見えくださいました。
大慧禅師の『宗門武庫』という書物を小川隆先生にご講義いただいています。
大慧禅師が当時の禅門のいろんな話を集めて書かれたものです。
その中には、よく理解できない話や、あまり修行の参考にならないようなものもあるのですが、当時の禅門の様子がうかがわれて楽しいものであります。
大慧禅師は、十六歳で出家して湛堂文準禅師について修行していました。
その後、圜悟禅師に師事することになるのです。
先日は、その湛堂文準禅師の話でありました。
はじめに「湛堂文準禅師は、興元府の人。真浄克文禅師の正統の後継ぎであった。」と書かれています。
更に「分寧・雲巌院の住持が空席となった際、その後任を補充すべく、当地の知事は、黄龍死心禅師に心当たりの者を推挙するよう命じた。」
というのです。
現代語訳は小川隆先生によるものです。
すると「死心禅師は言った。
「文準どのが、ふさわしゅうござる。拙僧は面識なく、ただ〈洗鉢頌(せんぱつじゅ)〉なる作を見ただけだが、これが、とてもいい!」
知事、「お聞かせ願えますか?」
そこで死心はその頌をとなえた。」
という話なのであります。
その頌というのが、
「之乎者也
衲僧の鼻孔 大頭下に向く
若也し会せずんば東村の王大姐(だいしゃ)に問取せよ」というものなのです。
この一見難しそうにみえる頌も小川先生は、
「“なりけりあらんや”も なんのその
わが鼻は このとおり ちゃんと下向きについている
そこのところが解らなければ そこらのおばちゃんにきくがよい」
と分かりやすく訳してくださいました。
「之乎者也」は、文語の助字であって、小川先生によれば、「空疎で迂遠な読書人の学問の喩え」だそうで、「なりけりあらんや」と訳するのは、過去に例があるそうなのでした。
昔の人は直接の面識がなくてもその作った漢詩をみて、その人物を推し量っていたのでした。
そんな例がいくつか思い当たります。
かの五祖法演禅師が浮山法遠禅師に参じていて、浮山禅師は五祖禅師に自分はもう年老いたので、白雲禅師のところにゆくように指示されたことがありました。
浮山禅師は、白雲禅師のことを直接知らないのでしたが、白雲守端禅師が臨済の三頓の棒について作った頌が実に「人に過ぐる処あり」といったのでした。
日本にも例があります。
独園禅師の「近世禅林僧宝伝」にもたとえば、伊予の大隆寺の晦巌道廓の章にこういう事が述べられています。
この晦巌道廓という方ははじめ博多の仙厓さんについて学んでいたのですが、ある方から鎌倉の誠拙に参じるように薦められます。
どうしてかと問うと、その方は「自分は誠拙に逢ったことはないが、彼の達磨の賛に『九年面壁、宿世業因、偸得一臂、失却半身』とある、これを見るに誠拙がいかに非凡であるかが分かる」と言って、誠拙に参じるよう薦め、晦巌は鎌倉円覚寺に来て、誠拙、淡海、清陰に参じて淡海の法を嗣いだのでした。
こういうことがあるものなのです。
そうして、その「知事はその非凡を認め、礼を整え、懇ろに文準を招請した。
文準もそれを断ることはしなかった。」というところまでを学んだのでした。
死心禅師が言った「文準どのが、ふさわしゅうござる。」というのは、原文は「準山主、住し得ん。」であります。
これは「住得」と書いて、住することができるという意味であります。
それは単に住することができるというだけでなく「具体的には、そこに住持するだけの力量・資格を具えている」という意味があるということです。
小川先生は、具体的に今私たちも「あの人は使える」というと単に使うことができるというだけでなく、有能で役に立つという意味に使っている例を示してくれていました。
それから洞山自宝禅師の故事を教えてくださいました。
この方は人となりが「廉謹」でありました。
「廉謹」は「私欲がなく、つつしみ深い」ことです。
実に実直だったようです。
五祖戒禅師のもとにいて、五祖禅師が病気になって、傍に仕える者に、台所から生薑を持ってくるように頼みました。
ところが、この自宝禅師が取締の役にあたっていて、叱って許しませんでした。
お仕えしていた者は、五祖戒禅師にことの子細を告げました。
五祖戒禅師はやむなくお金を支払って求めると、自宝禅師もようやく生薑を渡してくれたという話であります。
老師からの申し出であっても、決してゆるがせにしないのです。
そこで後に洞山に住する人がいなくて困って、五祖戒禅師に聴くと五祖戒禅師は「生薑を売る漢、住し得ん」と言ったのでした。
あの、ワシに生薑を売った者がよかろうというのです。
それくらい実直な性格ならだいじょうぶだというところです。
私なども部屋の電球が切れると、傍にいる修行僧に僧堂から電球をもらってきてくださいと頼みます。
道場では買い置きしています。
よく「お金を払わなくていいかな」というと、幸いうちの修行道場では、「けっこうです」と言ってくれるのであります。
そのうち請求されるようになるかもしれません。
この話を聴きながら、ちょうど山田無文老師の『愛語』にある話を思い出していました。
こんな話です。
禅文化研究所の『愛語』から引用します。
「匡道和尚が祥福寺を建て直す時のこと。大檀越に二千両の寄附もらい、晩飯を御馳走になって一杯機嫌で帰ってきた」時です。
当時の二千両というのは大金であります。
それで夜遅くに帰ってきたのでした。
修行道場はだいたい九時が開枕といって門限なのであります。
匡道和尚が「寄附してもらって、一杯よばれ、いい気になって帰ってきたら、玄関の戸が締まっておる。
ドンドンと叩いて、
「俺だ。 知客寮、起きろ」
すると知客寮が出て来た。」
知客というのは修行道場の取締の係です。
「老師ともあろう者が開枕の時刻を知らんか。門宿しなされ」
と言って開けてくれない。」
「門宿」というのは、寺の中には入れずに門のところで野宿することです。
厳しいことを言われましたが、
「匡道和尚、これを聞いて大いに喜んだ。山門を下りて、山根源兵衛という者の家に行って、
「老柄、今日ほどうれしいことはない。外には、北風さん(大金を寄付してくれた方)のように外護をしてくれる信者がおられ、内には俺を叱ってくれる知客寮がおってくれる。
それでこそ祥福寺は安泰だ。こんなうれしいことはない」
と言って喜ばれた。
山根源兵衛がこっそり知客寮に頼んで開けて入れてもらったということだ。」
という話であります。
そのあと無文老師は「まア、こんな知客寮がおったら、老僧なんぞ毎晩叱られておらんならん。
幸いにこのごろは隠寮が離れておるから、コッソリ帰れるがナ。」
と書かれています。
当時の無文老師は東奔西走、時に門限に遅れてお帰りになることもあったのでしょう。
古い中国の禅僧の逸話から現代の無文老師の逸話などを思い出していると、昔の禅僧方と共にいるような気持ちになってなんとも有り難いものです。
逸話を学ぶ楽しさがあります。
横田南嶺