辰年を迎えて
また喪中の皆様にはお見舞い申し上げます。
令和6年を迎えました。
辰年であります。
私も今年なんと還暦であります。
山田無文老師が、還暦を迎えた時に作られた和歌がございます。
今日よりは幼心に立ち返り
ただ和々とのみ笑いて暮らさむ
というのであります。
なかなか、わあわあといって笑って暮らせるわけではありません。
今年も円覚寺のことはもちろん、花園大学、禅文化研究所など、与えられたお仕事を精いっぱい務めるまでのことであります。
辰年ですが、辰は龍のことであります。
龍は、岩波書店の『仏教辞典』には。
「蛇に似た形の一種の鬼神(きしん)。
天竜八部衆の一つ。
インド神話におけるナーガは、蛇(特にコブラ)を神格化したもので、大海あるいは地底の世界に住むとされる人面蛇身の半神。
彼等の長である<竜王>は巨大で猛毒をもつものとして恐れられた半面、降雨を招き大地に豊穣をもたらす恩恵の授与者として信仰を集めた。
特にインドの原住民部族の間では古くからナーガ信仰が盛んであった。」
と書かれています。
更に『仏教辞典』には、
「ナーガは仏教でも初期聖典以来知られ、特に仏伝文学には仏陀を豪雨より護った竜王の話などが見られて、早くから仏教彫刻などの題材ともされた。」
と書かれています。
降り続く豪雨から、ムチリンダ竜王が、仏陀を守ったという故事があって、仏像などにもなされています。
更に『仏教辞典』には「中国では<竜>と漢訳された。
中国の竜は、鳳・麟・亀とともに四霊の一つで神聖視された。
角、四足、長いひげのある鱗虫の長で、雲を起し雨を降らせ、春分に天に昇り秋分に淵に隠れるといわれる。
そこで仏教の竜も中国的な竜のイメージで思い浮かべられるなど、大きく変容した。
わが国の竜神信仰は中国の竜と日本の蛇=水神との習合であるが、雨乞(あまごい)の神、豊漁の神、海の神として信仰された。」
と書かれています。
仏教の守護神として、よく禅宗の本堂の天井に龍の画が描かれたりしているのです。
龍というと、『仏教聖典』にある蟻塚の話を思います。
大法輪閣の『仏教聖典』から引用します。
「迦葉よ、或る人が或る婆羅門に、「この蟻姪は夜は煙って昼は燃える」と云うたことがある。
その時その婆羅門は、「それでは剣をとって深く掘れ」と命(いいつ)けたが、その命のとおり深く掘ると閂が出た。
婆羅門は更に、閂をとり除けて深く掘れ」と命けた。
今度は水泡を見た。「水泡をとり除けてもっと深く掘れ」。
今度は刺叉を見た。「刺叉をとり除けて更に深く掘れ」。
今度は箱を見た。「箱をとり除けて更に掘れ」。
今度は亀を見た。「亀をとり除けて猶深く掘れ」。
今度は屠牛者の刀を見た。「それを取り除けてもっと掘れ」。
今度は一片の肉を見た。「その肉を取り除けて更に掘れ」。
今度は竜を見た。
時にかの婆羅門が、「賢者よ、竜をその儘にして置け、竜を妨げるな、竜に帰依せよ」と云うたことがある。
汝は世尊の御許へ行き、この問答のことを尋ねて、世尊の説明し給うように記憶えるがよい。
すべての人人の中に世尊と、世尊の御弟子と、及び世尊の御教を聞いたものを除いて、この謎を説明し得るものはないのである。
こう語って、その神は姿を消した。
鳩摩羅迦葉は、その夜を過ぎて世尊の御許に行き、世尊にその事を申しあげ、一つ一つの説明を御願いした。
世尊はこれに答え給うよう。「迦葉よ、蟻垤というは、この身体のことである。
昼になしたことを夜になっていろいろ考えることが夜に煙るといい、夜いろいろ考えたことを昼になって、身に口に行うのを昼燃ゆるというのである。
婆羅門というのは仏のこと、或る人というは修道者のこと、剣というは聖き智慧、深く掘るというは精進のこと、閂というは無明、閂をとり除けるというは、無明を捨てることである。
迦葉よ、剣をとって深く掘れというは、聖い智慧をもって大いに精進し、無明を除けということである。
次に水泡というは、忿と悩とのことであり、刺叉というは狐疑不安のことであり、箱というは貪欲と瞋恚と懶眠と心の掉悔(あおり)と疑惑との五つの心の覆蓋のことであり、亀とは身と心のことであり、屠牛者の刀というは五欲のことであり、一片の肉というは楽を貪る欲の事であり、この忿と悩、五つの心の覆蓋、身と心、五欲、及び楽を貪る欲を捨てよというのである。
迦葉よ、竜というは煩悩の尽きたことをいうのである。
竜をその儘にして置け、竜を妨げず、竜に帰命せよというは、煩悩が無くなったならばその儘にせよ、悩なき人に帰命せよという義である」。
この説明を聞いて、鳩摩羅迦葉は大いに歓んだ。」
という話であります。
心の中を掘り下げてゆくことを、蟻塚を掘ることに喩えています。
心の中には、いろんなものが埋まっています。
無知が埋まっています。
怒りや悩みが埋まっています。
貪欲や瞋恚も埋まっています。
それらを全部取り除いて掘り下げてゆくと龍を見るというのです。
ここでいう龍とは煩悩の尽きたことです。
仏心といってもいいでしょう。
龍を見たらそのままにせよとは、仏心に目覚めたら、仏心のままで暮らせということであります。
仏心は慈悲心であります。
大地を潤し、稔りをもたらす慈悲の心であります。
仏心に目覚めるよう努めたい一年であります。
本年もどうぞよろしくお願いします。
横田南嶺