大晦日
これで本年も終わりとなります。
令和五年、いろいろのことのあった年であります。
晦日は「月の第30番目の日。転じて、月の末日をいう。尽日。つごもり」と『広辞苑』には解説されています。
つごもりは、ツキゴモリ(月隠)の約だそうで、
「①月の光が隠れて見えなくなること。また、その頃。(陰暦の)月のおわり頃。下旬。
②月の最終日。みそか」という意味が『広辞苑』には書かれています。
おおみそか、おおつごもりは、今では十二月の三十一日なのであります。
古くは三十日まででしたので、大晦日は十二月三十日でありました。
大晦日には掛け取りが来ていたのでした。
掛け取りとは「掛売りの代金を取り立てること。また、その人。近世には、歳末だけ、あるいは歳末と盆との2度であった。掛け集め。掛乞い。」と『広辞苑』に解説されています。
掛け売りとは「信用ある買手に対して、即金でなく、一定の期日に代金を受け取る約束で品物を売ること。かけ」と書かれています。
一年、つけで買っていたものの支払いをするのですから、たいへんな一日でもありました。
十二月のことを臘月といいますので、一年の終わりが臘月三十日であります。
その臘月三十日を、一生の終わりとして説くようにもなっています。
『禅関策進』には黄檗禅師の示衆として、
「あらかじめもし打不徹ならば、臘月三十日到来、爾が熱乱を管取せん。」という言葉があります。
管取とは、『諸録俗語解』には「うけあう」と訳すと書かれています。
そこで訳しますと。「あらかじめ今までに一大事を成しとげていないならば、息をひきとる時が来て、おまえが悶え死にすることは請け合いだ。」
という意味であります。
一大事とは、生死の一大事にほかなりません。
五祖法演禅師が「須らく生死の二字を将って額頭上に貼在して箇の分曉を討取すべし」と言われているように、この生死の二文字を額に貼り付け修行するのです。
生老病死という四つの苦しみの中でも、生死の二文字を見据えて坐るのです。
黄檗禅師の示衆の続きを筑摩書房『禅の語録19禅関策進』にある藤吉慈海先生の現代語訳を参照してみましょう。
「だから外道たちのなかには、人が修行するのを見ると冷笑して、「まだそれがふっ切れずにおるのか」というものがあるのだ。
ひとつおまえに尋ねよう、いざ臨終ということになった時、おまえはいったい何でもって生死に立ち向かうつもりかと。
このことをふだんから片付けておけば、いざという時に役に立つのだ。
なんと手数の省けることではないか。
のどが渇いてから井戸を掘ろうとするようなことはやめよ。
そんなことでは手も足も出しようがないであろう。
前途はるかに行くえも定まらぬのに、やみくもに右往左往するとは、やれやれ情ないことだ。
ふだんにただ禅の言語文句のみを弄して、禅はどうの道はどうのと説きまくり、仏をけなしたり祖師を罵ったりしても、いざというその時になればみんな何の役にも立たぬ。
ただひたすらに人をだましつづけてきたのが、なんとこの期に及んでは実は自らをだましきっていたのだ。
法の兄弟たちに言い聞かせたい、元気で健康な間に、はっきりと見て取っておくことだ。
この関門の鍵はたいへん開きやすいものだ。
ところがもともとおまえは決死の覚悟をきめて修行しようとせず、「むつかしい、いや、なんともむつかしい」と言ってばかりいる。
もしもおまえが本当に男一匹なら、この公案と取っくんでみよ。
すなわち「ある僧が趙州和尚に問うた、『犬にも仏性がありますか』趙州は言った、『無』と」。
四六時中この「無」に取っくんでみよ。 昼となく夜となく参究して、歩いているときも止まっている時も、坐っているときも寝ているときも、衣をつけたり食事をしたりするときも、大小便をするときも、常に自己を反省して、猛烈に精進して、この「無」の公案をしっかりと抱きこむのだ。
やがて月日がたって、この無になりきったならば、突如として心が花開いて、仏祖の禅機の本質を悟るであろう。」
というものです。
もっとも黄檗禅師が、趙州の無字の公案を薦めたというのは、時代的にもおかしなことで、この辺りは後の人が加えたものでありましょう。
昔、夢窓国師が修行時分に天台や真言の学問を学んでいて、その学問の師匠がいざ臨終の時に大いに取り乱してしまったのをご覧になって、仏教学では本当の生死の問題は片づかないと知って志を改めて禅宗に転じたと言われます。
生死の問題と言っても、漠然と遠い将来のことのように思っては埒が開きません。
浄智寺の南洲宏海禅師は常に「目前を看取せよ」と言われました。
目の前を見よということです。
ただいま目の前の問題に取り組めと示されたのです。
ただ今やっていることですから、掃除したらただ掃除するだけになります。
目の前にお茶が出てきたらただお茶をいただく、目の前にゴミがあったらただ拾うばかりです。
坐禅をしたならばただいまの呼吸しかありません。
この一呼吸になりきる修行です。
そうしてひとつひとつとりくんでいるうちに、こうして臘月三十日、大晦日がやってきました。
今年も一年お世話になりました。
皆様どうぞ良いお年をお迎えください。
横田南嶺