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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.12.28
今日の言葉

自分のことは見えない

年末になると、いろんな方が挨拶に来て下さるものです。

いろんな方にお目にかかって、こちらはニコニコしながらお話を拝聴するのであります。

いろいろお話を終えたところを見はからって、こちらから「今年はお世話になりました」というと、先方も「こちらこそ」と仰って、お互いに「どうぞよいお年を」と言ってお別れするのであります。

先日はとある方がお見えになりました。

円覚寺でセミナーを行っておられて、「先生」と呼ばれている方でいらっしゃいます。

さすがに「先生」と呼ばれるだけあって、礼儀作法も実に丁寧で所作も美しい方でいらっしゃいます。

その時には、ソファの置いてある応接間でお目にかかったのでありますが、丁寧に床に正坐して挨拶されるのでこちらが恐縮してしまうほどです。

いろいろの話のあとに、おうかがいしたいことがありますと仰せになりました。

何事かと思って聞いていると、その方の甥御さんのことだそうです。

詳しいことは失念しましたが、大学院も出た学者さんらしいのであります。

御立派なのですが、立派なゆえか、まわりのことが気になって仕方がないというのです。

そとで食事をしていても、まわりの子や大人が、騒がしいのが気になって仕方がないというのです。

外で食事をすれば、まわりで話をしているのは当たり前のことで、かなり騒がしい中でも人は、会話ができるものです。

それが気になって、まわりに腹を立ててしまうというのです。

しかし、そのようにまわりを気にしてばかりで、腹を立てたりしては、たいへんであります。

甥は自分ことを偉く思っているのではないかと気になるというのです。

まわりにばかり気を取られて、地に足が着いていないのではないかと心配されているのです。

そのような甥に何という言葉をかけてあげたらいいのでしょうかというのであります。

じっとお話をうかがっていて、私がその「先生」に尋ねました。

「その甥御さんは、まわりのことが気になって仕方がないのですね」と。

すると、「そうです、まわりのことばかり気にしているのです」と答えられました。

更に「自分ことを偉く思っているのではないかということですねとうかがう」と、そうなのですと答えられました。

しばらく間を置いてから、相手に失礼にならないように言葉を選びながら、申し上げたのであります。

「今おうかがいしていますと、まわりのことが気になってしかたがないというのは、恐れながら、ただいまの先生のことではありませんか」と申し上げました。

その先生は、ビックリした表情でした。

「ただいまお話をうかがっていますと、甥御さんのことばかりを気に掛けておられるようにお見受けしました。違いますか、いかがです」と申し上げました。

更に「恐れながら甥御さんは自分ことを偉いと思っているのではということでしたが、これもまた先生ご自身のことではありませんか」と申し上げたのでした。

甥御さんになんとか説教してあげたいという気持ちを起しているのは、すでに傲りの心なのであります。

よく話をご理解してくださる先生でしたので、「私としたことが、なんと愚かなことでした。よくお示しくださりました」と感謝されましたので、こちらもホッとしました。

人は誰しも自分ことは見えにくいのであります。

他人ことはよく分かるのであります。

そのあと丁寧にお礼を言ってくださるその先生に、申し上げました。

「いえいえ、私もまた自分のことはよく見えていないものです。

愚かな過ちをいつも繰り返しています。

傍目八目とよく申しますが、こうして傍からお話を聞いているとよく見えるものなのです。

それだけのことであります」と申し上げたのでした。

傍目八目とは「他人の囲碁を傍で見ていると、実際に対局している時よりよく手がよめること。

転じて、第三者には、物事の是非、利・不利が当事者以上にわかること。」と『広辞苑』には解説されています。

時に静かに自己を見つめるということは、自分ことをこの「傍目八目」の眼で見てみることでもあります。

道元禅師は、『正法眼蔵』の中で、「愛語」について丁寧に説かれています。

愛語とは「相手をやさしく思いやることば」です。

そのやさしく相手を思いやることばというのは、まずその人に対しいつくしみの気持ちを持って、思いやりのあることばを用いることです。

決して、荒々しいことばを用いるのではありません。

「慈念衆生猶如赤子のおもひをたくはへて言語するは愛語なり。徳あるはほむべし。徳なきはあはれむべし。」と仰せになっています。

人々を慈しみ思いやることは、まるで生まれたばかりの子どもに対するような心なのです。

そんないつくしみの気持ちを持ちながら、やさしいことばを用いることが愛語です。

よいことは賞めてあげることですし、よいことがなければ、その人の身になっていたわってあげることです。
その先生にしても、まずは自分も同じようにまわりが気になって仕方がないし、自分ことを偉く思ってしまっているのだと思って、その甥御さんのことを、自分と同じように慈しみ思いやる心になれば、自ずと愛語が生まれてくるはずであります。

いろんな方のお話をうかがって、こちらが学ばせてもらうのであります。

人間というのは、自分ことは見えていないということを。

 
横田南嶺

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