人は何の為に生きるのか?
無常であり、無我であることが、空と表現されるようになっていったのでした。
『般若心経』を昨年、花園大学で講義して、その講義を今一冊の本にまとめています。
来年出版される予定であります。
空を説明するのに、仏陀の無常や無我という教えから説いていったのでありました。
増谷文雄先生の『仏教百話』には「無我」についての喩えが説かれています。
「無我のことわりを喩えて」という章です。
そこに増谷先生は、
「無常とか、無我とかいう考え方は、仏陀の教説の基底をなすものであるが、微妙な考え方であるので、なかなか実感として捉えがたい。
仏陀は、いま、流れのほとりに立って、水の流れるさまを眺めながら、ふと、そこに、無我の実感をあたえる好材料を見出したのである。」
と書かれて、そのあと仏陀の言葉を紹介してくれています。
引用します。
「比丘たちよ、このガンガの流れのさまをみるがよい。
かしこに渦巻がおこっている。
だが、よくよく見れば、渦巻そのものというものはどこにもない。
あるいは、渦巻の本質というものもどこにもない。
それは、たえず変化する水の形状にしかすぎない。
そして、人間の存在もまたおなじである。」
というものです。
そのあとに、増谷先生は、
「仏陀の人間観は、人間をその物質的なもの(これを色という)と精神的な諸相(受=感覚、想=表象、行=意志、識=判断)とに分析して、それらの流動する結合統一として人間を考えるという考え方であった。
したがって、そこには変化しない肉体や所有や自己の本質というものは存しないと考えられる。
無我というのは、そのような考え方をいうことばである。」
と分かりやすく解説してくださっています。
そのあと、更に四つの喩えを紹介してくださっています。
「その第二は、水の面にうかぶ泡沫である。
人間の感覚(受)は泡沫のようなものであるというのである。
その第三は、日ざかりに立ちのぼる陽炎である。人間の表象(想)は陽炎のようにはかないというのである。
第四には、芭蕉の喩えがあげられる。芭蕉を伐りたおして、その皮をむいてゆくと、どこまでいってもその心材にいたることができない。
人間の意志(行)もそんなもので、その不変の本質などというものは、どこにもないというのである。
第五には、幻師の術という喩えがあげられる。かの時代には、四辻で人々のまえにまぼろしを描き出す術をあやつる者があった。
仏陀は、ここに、その術をもって、人間の判断(識)に比して語っている。」
というのであります。
そして次の偈を書いてくださっています。
「人の肉体は渦巻のごとくである、
その感覚は泡沫のごとくである。
その表象はかげろうのごとくである、
その意志は芭蕉のごとくである、
その意識はまぼろしのごとくであると、
かくのごとく仏陀は説きたもうた。」
「よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世中にある、人と栖(すみか)と、又かくのごとし。」とは『方丈記』の言葉です。
『金剛般若経』には、
一切有為の法は、夢幻泡影の如く、露の如く亦電の如し、まさに是のごとき観を作すべし」という言葉があります。
岩波文庫の『般若心経 金剛般若経』には、
「現象界というものは、
星や、眼の翳、燈し火や、
まぼろしや、露や、水泡や、
夢や、電光や、雲のよう、
そのようなものと、見るがよい。」
と訳されています。
夢の如く、幻の如くとはよく説かれるところです。
先日、とある大きな企業の若い方々の研修会で、般若心経で説かれる世界について話をしました。
人間の命は、夢のようなものだと話しました。
夢だからといって、どうでもいいわけではありません。
夢だと分かって夢を見るのです。
夢と分かって見る夢は却って楽しいものです。
夢なのでそれほど失望することもありません。
よい夢をみるようにすればいいのですと話をしたのでした。
質疑応答の時間があって、最後にある青年が手をあげて質問してくれました。
いろいろと話をうかがってとても参考になったけれども結局人は何の為に生きるのですかという問いでありました。
何の為に生きるのか、古来多くの人が考えてきた問題です。
何の為に生きるか、私もまたよく考えたものです。
簡単に答えがでるものでもないでしょう。
また人それぞれの答えがあろうかと思います。
しかし、私は、そのとき明確に答えることができました。
人は生まれて、そのあとやがて死ぬのです。
このことだけははっきりしているのです。
だから死ぬ為に生きるのですと答えました。
そして、その死ぬ時に、ああ良い夢を見た、もう思い残すことは何もないと言って死ぬ、そのために毎日を生きているのですと答えたのでした。
更に皆さんはこれからよい夢を作り出すお仕事をなされるのだと思います。
みんなが喜ぶようによい夢を作り上げて、精いっぱいやったと思って最後を迎えられるように頑張ってくださいと申し上げたのでした。
死ぬ迄と思うと長いように感じますので、まずは一日一日です。
今日はよく頑張った、思い残すことはないと蒲団に入るように心がけたいものです。
横田南嶺