沈黙の響き
この企画では、一昨年の十二月に神渡良平先生と対談したこともありました。
その時には、「宇宙の響き・帝網珠」というテーマで話をしました。
今回は神渡良平先生を偲んで、「いのちを拝む」と題して、神渡先生とのご縁や、今年の六月に新潟の十日町で行った講演のことなどについて話をしました。
zoomでの対談で、二十名くらいの方が視聴してくださっていました。
中には顔見知りの方もいらっしゃってくれました。
セキレイの話も話題になりました。
これは「神渡良平公式サイト」に公開されている「沈黙の響き」というニュースレターにある話です。
私も神渡先生から送っていただいて拝読し、感動したのでした。
「セキレイが教えてくれた宇宙の本質」という文章です。
神渡先生の知人の方の話であります。
車で車道を走っていると、車道のセンターラインで一羽のセキレイが何かネズミ色のものをつついており、車が近ずいても逃げないそうです。
その方は車を停めてよくみると、ネズミ色のものはセキレイのヒナでありました。
ヒナが地面に落ちて、動けなくなっていたのを、母鳥が必死になって飛び立つように促すのですが、ヒナは動かないのだそうです。
その方は、車を降りて近ずくと、ヒナは危険を感じたのか、あわてて動き出し、更にヒナを追い立てて藪陰に逃げ込ませたというのであります。
すると、驚いたことに、その間母鳥は、二度三度と急降下して襲いかかってきたのでした。
母鳥は、小さな身体で、自分の何倍もある人間に体当たりを試みてヒナを守ろうとしたのです。
その方は、セキレイの母性本能の健気さに涙したという話であります。
神渡先生は、そこで、
「そんな体験談を読んで、私はすべての“いのち”が授かっている母性本能について考えさせられました。
人間も動物も小鳥も虫も、生きとし生けるものすべてがみんなそういう愛を授かっている……。
ということは、すべての被造物の根源である天の本質は愛だということになります。
この全宇宙は無機質な伽藍洞(がらんどう)なのではなく、それを貫いてカバーしているものは“愛”に他なりません。
その愛を、自分の人格の創造主として、具現化することが私たちの務めなのだといえましょう。」
という話です。
お釈迦様は、「あたかも母が己が独り子を命を賭けても守るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみの心を起こすべし。(スッタニパータ)」と説かれたのでした。
母が我が子を命をかけて慈しむ、そんな思いによって立ち上がったのが、新潟県十日町の樋口功さん、春代さんご夫妻なのです。
我が娘の為に命をかけて、トイレットペーパーの製造で障がい者の自立を実現しているNPO法人あんしんを立ち上げたのでした。
対談ではこの樋口さんご夫妻もご参加されていました。
この樋口さんご夫妻の話が中心になっているのが、神渡先生の『いのちを拝む』なのであります。
この本の第七章に、「生きているだけではいけませんか?」、「沈黙の響きー内なる声を聞く」という章があります。
これが話題にもなりました。
神渡先生がお若い頃、オーストラリアに出かけて、そこで当時日本交通公社ゴールドコースト支店長だった西澤利明さんに出遭われました。
西澤さんについて神渡先生は、『いのちを拝む』のなかで、次のように書かれています。
引用させてもらいます。
「西澤さんはオーストラリア・クイーンズランド州政府の局長をしているとき、ガンが発見されて自分の死に直面し、人生を見詰めなおそうと、一年早く退職しました。
思索の末にたどり着いたのは、日本の文化の原点である「一隅を照らす」だったそうです。
西澤さん自身の言葉で語ってもらいましょう。
「死の宣告を受け、自問自答して至った結論は、
『どれだけ世のために尽くしたかということに尽きる』
でした。
大それたことをしなくとも、自分の天命に気づき、自分に与えられた持ち場で “一隅“を照らせばそれでいいんだと思いました」
日本から約六千キロメートルも離れた南半球のオーストラリア大陸で再確認したのは、日本の文化が古来もっとも大切にしてきた「一隅を照らす」という生き方だったというのです。」
と書かれているのです。
更に西澤さんの言葉には胸打つものがあります。
こちらも『いのちを拝む』から引用させてもらいます。
西澤さんが神渡先生に伝えた言葉です。
「人間はどんなに小さな存在であったとしても、この世に生きたということこそが最大の奇跡であり恩寵だと気がつきました。
日々の喧騒から離れ、しばし“沈黙の響き”を魂の奥で咀嚼できれば、私たちに語りかけている“大いなる存在”が、私たち一人ひとりを通して現れようとされているということに気づきます。
聖書にイエスは『我を見しもの、神を見るなり」と言われたと書かれていますが、私はそれを、イエスは『神は遠くにあるのではなく、日々あなたの中にともにあるのです』と説かれたのだと解釈しています。
見えないものの顕れがこの世界であり、その中心である人間は神の神格を共有する実体であり、誰もが神を共有できるのだと言おうとされたのだと思います。
神は私たちから遠く離れた存在なのではなく、私たちの日常の行為が神そのものの顕現であるように努めることが、私たちに課せられた責務であるように思います。
その意味で最澄が務めた『一隅を照らす』という生き方は、イエスが言われる『我を見しもの、神を見るなり』と相通じているといえるのではないでしょうか」
というのが西澤さんの言葉です。
それに対して神渡先生が
「死に直面すると人は真剣になります。どこかにあった甘えが削ぎ落とされ、真に人生のラストスパートが切れるものです。」と書かれています。
更に
「西澤さんが言及された点は私ももっとも強く感じていることであり、作家としての活動の柱としているものです。
私もまた神を人間からかけ離れた特別な存在とは見なさず、「私を通して自己顕現しようとされている存在」と捉えています。」
と書かれているのです。
「人間はどんなに小さな存在であったとしても、この世に生きたということこそが最大の奇跡であり恩寵だ」という言葉は、禅の教えにも通じるものです。
人間は死に直面すると、必ず真理に目覚めることができるのだと思います。
それこそが沈黙の響きであります。
ふだんは生きているのがあたりまえに思ってしまって、喧噪の中に埋もれてしまっていると、沈黙の響き、いのちの真実が聞こえてこないのです。
沈黙の響きに耳を傾ける時を大事にしたいものです。
横田南嶺