すべては光り耀く – 華厳の世界 –
鈴木大拙先生には『華厳の研究』という書物があります。
もともと『鈴木大拙全集第五巻』に収められていたものです。
これが令和二年に角川ソフィア文庫から出版されて、手に入りやすくなりました。
この本は、もともと英文で書かれたものを、杉平顗智(しずとし)先生が日本語に訳されたものです。
安藤礼治先生が解説を書かれています。
安藤先生の解説のはじめに、本書の中の一節が引用されています。
大事なところだと思いますので、煩を厭わず引用します。
第二篇 華厳経、菩薩理想及び仏陀
というところの「一 華厳経における場面の全面的転廻」の冒頭です。
「『楞伽経』とか、『金剛経』とか、『大般涅槃経』とか、あるいはまた『妙法蓮華経』とか、『大無量寿経』とかの後で、『華厳経』に来ると、大乗仏教という大宗教劇の演ぜられる舞台面に完全な変化がある。
ここでは、冷ややかなもの、地上的な灰色のもの、人間的な矮小のものは全く見出されない、目にうつるあらゆるものが、すべて皆、たぐいのない光に輝きいでるからだ。
われわれはもはや、暗い、硬い、そして限りのある、この地上の世界に居るのではない、不可思議にも身に運ばれて、天上の銀河の間に上る。
この天上の世界は光明そのものである。
地上の薄暗い祇園林、師子王釈迦がおそらくは坐ったであろうと思われる見るかげもない枯草の座、無我の講説に耳を傾けるみすぼらしい托鉢僧の群れ、これらは皆ことごとくその影を消している。」
という一節であります。
そのあと更に、
「仏陀がある種の三昧に入ると、彼が身をおいていた楼閣は忽然として宇宙の端の端まで拡がる、否、宇宙そのものが仏陀の存在の中に溶け込むのだ。
宇宙が仏陀で、仏陀が宇宙である。
しかも、それは単なる虚無の拡がりではない、また、極微へのそのちぢまりでもない、大地は金剛石で鋪かれている、柱・梁・欄干などは光輝燦爛として相互に映発するあらゆる種類の宝石や宝玉をもって鏤められている。」
と続いています。
解説では、安藤先生も「禅を論じる大拙と、なんという違いであろうか。『華厳経』に描き出された仏陀は、現実とは異なったもう一つ別の世界、「霊性」の世界 (spiritual world) を生きている。」
と書かれています。
もっともこの本は、大拙先生が序文で、
「この訳書の原文は二十年前のもので、またその立場も禅を主としているので、『華厳』から見た『華厳』ではない。」
と書かれているように、禅の立場から説かれたものなのであります。
華厳に於ける仏陀とはどのようなものなか、本書では次のように説かれています。
大拙先生は、
「結論として、菩薩の一人が仏陀の徳をたたえて説いた偈頌を引用しよう、われわれはそれによって仏陀がその信奉者に対し、『華厳経』の中で一般にどのような関係に立っているかを見ることができる。
(一) 偉大なる牟尼、釈種の最もすぐれたもの、彼は一切の功徳を具足する、彼を見るものはその心浄まりて、大乗に赴き向う。
(二) 如来の出世は普く諸々の群生を利せんがためである、 大慈悲の心から、如来は法輪を転ずる。
(三) 諸々の仏陀は衆生のために永劫にわたって幾多の勤苦を重ねる、一切世間はその負うところをいかにして報いることができようか。
(四) 仏を捨てて他のいずこかに解脱を求めるよりはむしろ無量劫にわたって悪道の苦を受けよう。
(五)仏を見ることのないところにおいて安楽を見出すよりはむしろ一切衆生に落ちかかる一切の苦を受けよう。」
というように、これが十一まで続いています。
そこから更に大拙先生は、禅における仏とは何かについて論を進めておられます。
「このような仏陀の観念が禅においていかなる変化をうけたかを示すために、「仏とは何か、または誰か」という質問に対して禅匠たちが与える返答を若干引用しよう。
すぐにわかることではあるが、ここでは仏はもはや天上の光に包まれた超越的存在ではない、われわれの中に歩み、われわれと共に語る、われわれと同様な一個の老紳士である、全く近づき易い見なれた存在である。
よし彼が光を放つことがあったとしても、それはわれわれにも見出すことのできる類のものである、その光は観知せられるべき何かのものとしては以前からそこにあるわけのものではないのである。
シナ人の想像は、あのように高く、あのように輝かしく、あのように眩めくように飛翔することはないのである。
この論文の最初の部分に画かれたような光輝燦然たる場面は巻きおさめられてしまって、われわれは再び灰色の地上に取り残される。
仏陀とその神通力と環境とだけを取り立てて考えると、表面的には禅と『華厳経』との間には大きなギャップがある。」
と示されています。
しかし、これは決して華厳の世界と禅の立場とは別であると言っているのではありません。
このあとに大拙先生は、
「しかし、その事の本質にまでより深く入ってゆくと、禅には『華厳経』の光に照して初めて理解せられるところの「相即相入」が多分にある。」
というのであります。
そこで禅問答を紹介されています。
「百丈懐海(七二〇ー八一四)が一僧に尋ねられた、「仏とは誰ですか」
百丈、「お前は誰だ」
僧、「某甲です」
百丈、「お前はその某甲を知っているか」
僧、「はい、十分に承知いたしております」
百丈はそこで払子を挙げていった、「見えるか」
僧、「見えます」
そこで百丈は居室の中に閉じこもってしまって、それ以上一語も語らなかった。」
この問答には、仏とは現に今ここにはたらいているものだということがありありと示されているのです。
この本には、臨済禅師の言葉も大拙先生が紹介しているところがあります。
「仏」に関わるところを引用してみます。
「もし四六時中いつも外物を追いかけまわすようなことが不必要になったら、諸君も仏祖と異ならぬものとなるであろう。
仏を知り祖を知りたくはないか。仏祖はいまこの目前に私の講説をきいているところのものがすなわちそれだ。
自信が不十分だから、絶えず外物を追いかけまわすことになる。」
「友よ、私の見処からすれば、私の見性は釈迦のそれと寸分の違いもないのだ。
われわれは日々のあらゆる働きをやっているが、この働きに何か欠けたものがあるか。
欠けたものは一つもないのだ。 眼・耳・鼻 舌・身・意のそれぞれの働きを通じて釈迦も融通無礙なら私も融通無礙である。
このように見得すれば実に一生無事の人である。」
と説かれている通りなのです。
大拙先生は、華厳で説かれるまばゆいばかりの霊性の世界が、現実とは違ったもうひとつの世界のことではなく、日常の中、お互い現にはたらいている中にこそ見出したのが禅であるとご覧になっていると察します。
灰色の地上を離れて光耀く寂光土はないのであります。
この本は、令和二年の初版で、令和五年では第四版になっています。
今の世に多くの方がこの華厳の本を読んでくれていることに、光明を感じるのであります。
横田南嶺