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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.12.03
今日の言葉

今まさに華厳 – 『華厳という見方』 –

玄侑宗久先生から『華厳という見方』という本を送っていただいていました。

10月にケイオス出版というところから出されたものです。

拝読してとても分りやすく華厳の世界を説いてくださっていると感動しました。

管長日記で紹介しようと思いながら、遅くなってしまいました。

仏教の中でも、実に華厳の教えというのは素晴らしいものです。

ただその華厳を学ぶには、『華厳経』というお経が大部の経典で読むのがたいへんですし、華厳の教学というのは実に難解なのであります。

華厳を勉強し直そうと思ってただいま毎月湯島の麟祥院で竹村牧男先生に『華厳五教章』を講義してもらって拝聴していますが、なかなか理解が難しいのです。

分りやすい華厳の本があるといいなと思っていたところでした。

そんなときに玄侑先生が、送ってくださったのでした。

この本は二〇二〇年から二〇二三年六月まで、華厳について四回講演されたものをもとにして書き下ろされたものです。

もとが講演なされたものですので、とても読みやすく分りやすいのです。

華厳という言葉についても解説がありますので、引用させてもらいます。

「みんな雑で序列はない」という小見出しがついています。

「『華厳経』の「華厳」という言葉は、「雑華厳飾」が短縮されたものです。「雑華」は「雑」な「華」。

「厳飾」は「厳しい」に「飾る」。

「厳」には「かざる」という意味があります。

雑華が世界を飾っている、ということです。

しかしそうすると、「雑華」って何なのか。

普通に考えますと、「雑」という言葉にはあまり良い意味は感じないでしょう。

反対語は「純」とか「整」でしょうか。

そんな言葉が浮かぶのではないかと思うのですが、実はそういうことではないのです。

この「雑華」という世界観では、みんなが雑なのです。

生命科学者の中村桂子先生がおっしゃっていますが、遺伝子の研究が進んできてわかったのは、みんな欠陥だらけだったということです。

遺伝子をよく調べてみると、実は誰も彼も欠陥だらけで、欠陥のない人なんていなかった。

だから、みんな雑という見方もできます。」

と解説してくださっています。

華厳という見方の一番目は序列のない世界を説いているというのです。

二つ目はすべては心が作り出したものだということを説いていて、三つ目は、縁起という考え方を細かく分析し、深く見つめているということだと書かれています。

円覚寺も仏光国師が開創された当初は、本尊は毘盧遮那仏であり、華厳の教えをもとに作られているのです。

しかしながら、どういうわけかご本尊は宝冠釈迦如来と呼ばれるようになってゆきました。

毘盧遮那仏とは華厳の仏さまです。

どんな仏様なのかを玉城康四郎先生の『スタディーズ 華厳』(春秋社)から引用してみます。

「世界としての毘盧遮那仏」
「…その毘盧遮那仏は、われわれが今生きている宇宙世界そのものです。

現に生きている世界だから、見渡してみるとわれわれは宇宙を見ているのですが、われわれの目に早えるものは建物とか皆さまの姿とか、広々とした東京とか、せいぜい大空とか、そういうものしか日に映らないのですね。

ところが毘盧遮那仏は宇宙そのものですから、日に入ってこないのです。

だからわれわれが今生きているということは、自分は意識しないけれども、実は毘盧遮那仏のまっただなかに生きているのです。

このことが基本になって華厳経が展開していくので、どうかその点によくご留意願いたいと思います。

もう一度言うと、今われわれは生きていて、やがては生命がなくなって死んでいくけれども、死んでも何もなくなるのではなくて、また次の世界に生まれ変わって新しい生命が展開するのですから、とにかく生きていても死んでいても眠っていても目がさめていても、われわれ自体が毘盧遮那仏のまっただなかに今呼吸し続けている。それが基本です。」

と説かれています。

華厳の説く縁起について玉城先生は、

「無限の重なり合い」として、

「縁起というのは、もとはプラティートヤ・サムットパーダという言葉です。

プラティというのほ「それぞれに」という意味もあるし「~に対して」という意味もあります。

イティヤというのはイ、「行く」という動詞の絶対詞です。

「行く」というのはすべての行動を代表しているから「働く」、絶対詞になって「働いて」という意味です。

サムというのは「共に」、ウトパーダは「生じていること」です。

プラティを仮に「それぞれに」の意味にとってみると、「それぞれが働いて共に生じていること」、これが縁起ということのもともとの意味になります。
 
たとえば私ども一人一人が家庭で、あるいは仕事場で、仕事を終えて、私どもそれぞれがここにやってきて、つまり働いて、今ここにこういう会合がともに生じている。

これはいくら私一人がしゃべっても生じない。

皆さんがいくら集まってきても生じない。

それに私と皆さんだけではなくて、電灯も働いている。

あかりをちゃんと照らしている。それからこの建物自体が働いて、われわれに活用させてくれていますね。」

と分りやすく解説してくださっています。

玄侑先生は、この『華厳という見方』の「はじめに」で、

「折しもウクライナではロシアによる侵攻が開始され、日本でも防衛三文書が閣議決定された。

国際情勢は一気に焦臭くなってきたのである。

思えばブッダが生きた時代のインドも、戦禍の連続だった。
「仏の顔も三度まで」とは、隣国であるコーサラ国に故国・釈迦国が攻められようとするのを、ブッダが三度までは身を挺して防いだことに由来する。ちなみに四度目はブッダも止めに入らず、釈迦国はブッダの存命中に滅亡する。

そのように歴史的に振り返れば、ブッダの悟りは戦禍を背景にしたとびきりの安寧と思えてくる。

ブッダの悟りの情景を、人々の理解をアテにせず描いたのが『華厳経』であってみれば、これこそ今の日本、いや世界に紹介すべきうるわしい花や果実ではないだろうか。」

と説かれています。

今まさに学ぶべき「華厳」です。

玄侑先生の新著『華厳という見方』をお薦めします。

 
横田南嶺

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