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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.10.27
今日の言葉

ありのままの心

よくいろんな方から本を送っていただきます。

有り難いことであります。

なかなかすべてを読み通すことはできないのですが、少しでも学ばせてもらおうと思っています。

先日も、とある方から日野原重明先生のご著書を送っていただきました。

幻冬舎から出た『生きていくあたなへ 105歳どうしても遺したかった言葉』という本であります。

2017年9月に初版発行されています。

いただいてパッと開いたページに、

「大切なことはすぐにわからない」という言葉が、大きく書かれていて心に響きました。

そうだ、すぐにわからないことこそが、本当に大切なことなのだと、その言葉を読んで思いました。

何でもすぐに分ればいいというものではないのだと、これは普段からつくづく思っていることです。

そんな言葉に関心を持って、ページをめくりました。

そこには、一ページいっぱいに聖書の言葉が書かれていました。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
しかし人は、神が行われるみわざを、
初めから終わりまで見きわめることができない。
旧約聖書 コヘレトの言葉 三章十一節」

という言葉です。

その次のページには、

「突然の災害で家族を亡くしました。
この悲しみを私は乗り越えていけるのでしょうか?」

という問いが大きく書かれていてそのあとに日野原先生の言葉がございます。

一部を引用させていただきます。

「僕は、病気で亡くなった人もたくさん見てきたけれど、それだけでなく、戦争や災害、不慮の事故など、人間の理解では受け入れがたい死もたくさん見てきました。

「どうしてこんな目にあわなけれればならないのか」と納得しがたい気持ちになるような、人智を超えた出来事を、僕達人類はたくさん経験しています。」

と書かれいて、日野原先生ご自身も

「神様のご計画は、人間にはわかりません。」

と仰っています。

しかし日野原先生は、

「人間にはわからないけれど、すべてには神様のご計画があると、僕は信じています。」というのであります。

それはどうしてかというと、

「そして僕にそれを信じさせるのは、「神は越えられない苦しみは与えられない。そしてそのなかで逃れる道を与えてくださる」という聖書の言葉です」と書かれているのです。

私がこころ打たれたのは、そのあとの言葉であります。

「あなたは今悲しみの真っ只中にいて、一生自分は笑うことがないと思っているかもしれません。

でも僕達人間には、時間がかかっても必ず悲しみを乗り越える力が備わっています。

綺麗な花を見たり、素晴らしい音楽を聞いたり、友達と心が通じ合えたり、そんな癒やしの恵みを味わうことで、生きていてよかったなと思える瞬間が必ずやってきます。その時を信じて待つのです。」

という言葉です。

綺麗な花を見て、美しいなと感動したり、爽やかな風が吹いてくるのを感じて、ああ心地良いなと思ったり、鳥の声を聞いて心があたたかくなったりする、そんな心を、お互い誰しも授かっているはずなのです。

花を見たり、鳥の声を聞いたりして感動する心というのは、誰かに教わったものでも、訓練して身に付けたものでもないのです。

誰しも生まれながら授かっています。

そんな心こそが禅でいう「平常心」というものではないかと思ったのです。

ちょうど、日野原先生の本を開く前に、古本屋で買った『禅話 隻手のひびき』という本を読んでいました。

これは昭和十年に発行された古い本です。

神月徹宗老師の書かれたものです。

「日々の生活、それが道である。直接生命そのものを捕へることにある。そこには何の不思議もない。

私が手を上げたり、本を取ったり、コップを持つたり、裏の山で鳥が鳴いたり、空には雲が流れてゐたり、そこに禪があり、道がある。

何の理窟もなく、説明も要らない。何う斯うのと云ふ理窟の中に禪はない。

「考へる」所に道はない。

そよそよと吹く風に當れば何とも云へぬ心持ちになるし、鳥の啼聲を聞けば心朗かになる。

それだけのことである。そこに「道」がある。」

という言葉がありました。

これは『無門関』第十九則の「平常是道」について神月老師が語った一節であります。

趙州和尚がまだ修行時代に、南泉禅師に質問しました。

道とは如何なるものでしょうかと。

南泉禅師は、ありのままの心が道であると答えました。

「平常心是れ道」であります。

そのありのままの心に志向できますと問う趙州和尚に、南泉禅師は、「向かおうとしたとたんに外れてしまう」と答えます。

「志向しないのであれば、どうしてそれが道だと知ることができましょうか」と問うと、南泉禅師は「道というのは、「知」「不知」という分別に渉らない。「知」といったところで、それは誤った分別であるし、「不知」といってもぼんやりと呆けているに過ぎない。

疑うことのない道に本当に達することができれば、それは虚空のごとくからりとしていて際限がないのだから、どうして是や非という分別を差しはさむことができようか」と答えました。

その言葉を聞いて趙州和尚は大悟したのです。

訳は、『新国訳大蔵経 中国撰述部①ー6 禅宗部 法眼録 無門関』にある柳幹康先生の訳文を参照させてもらいました。

平常心とは、特別に志向して得られるようなものではないというのです。

まさしくありのままの心です。

神月老師の説かれる「そよそよと吹く風に當れば何とも云へぬ心持ちになるし、鳥の啼聲を聞けば心朗かになる」という心です。

そんな心が、日野原先生の説かれる「悲しみを乗り越える力」なのだと思いました。

そしてそれは本来具わっているのです。

「綺麗な花を見たり、素晴らしい音楽を聞いたり、友達と心が通じ合えたり、そんな癒やしの恵みを味わうことで、生きていてよかったなと思える瞬間が必ずやってきます。」

という言葉が、禅の平常心を説いていると感じたのであります。

「綺麗な花を見たり、素晴らしい音楽を聞いたり、友達と心が通じ合えたり」する、そんな持って生まれた、ありのままの心が生きる力になってゆくのです。

 
横田南嶺

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