からりと開けた心境
円覚寺でも午前十時から仏殿に於いて法要をお勤めしました。
達磨大師というと、『広辞苑』には、
「達磨」として、
①(梵語菩提達摩)禅宗の始祖。
南インドのバラモンに生まれ、般若多羅に学ぶ。
中国に渡って梁の武帝との問答を経て、嵩山の少林寺に入り、九年間面壁坐禅したという。
その伝には伝説的要素が多い。
その教えは弟子の慧可に伝えられた。諡号は円覚大師・達磨大師。達摩。(~530?)
②達磨大師の坐禅した姿に模した張子の玩具。
普通、顔面以外の部分を赤く塗り、底を重くして、倒してもすぐ真直に立つように作る。
開運の縁起物とし、願いごとがかなった時に目玉を描き入れるならわしがある。不倒翁。」
という二つの意味が書かれています。
よく一般に目にするダルマさんというと、二番目の張子のダルマさんを思い浮かべます。
『禅学大辞典』には詳しく書かれています。
参照してみます。
「禅宗の伝灯における西天の第二八祖であり、禅をインドより中国に伝えたことにより、中国禅宗の初祖と呼ばれる。
達磨の伝記は従来、〔景德傳燈錄〕(菩提達磨章)に拠ってきたが、近年の研究はそれ以前の古い資料を中心に達磨の伝を構成しようとする傾向にある。」
と書かれています。
そのあと達磨伝の資料について、詳しく書かれています。
そうして「これらから達磨伝を考えてみると、その生国は波斯国あるいは南天竺国で、後世に成立した資料では、国王の第三王子であるとされる。
般若多羅の法を嗣ぎ(祖統説の差によって異なる)、中国に渡来した。
…〔寶林傳〕は梁、普通八年(五二七)九月二一日に広州に到着したとしている。
期日を明確に記すのは〔寶林傳〕が最初であるが、後代には多くの異説が生じた。
梁の武帝が達磨伝に登場するのは、〔南宗定是非論〕〔問答雑徴義〕が最初で、それ以前の資料にはなく、「無功徳」の問答も、〔祖堂集〕に至ってはじめて記される。
その後達磨は嵩山少林寺に入り、面壁すること九年であり、これを測り知る人はなかったという。
達磨の法を嗣いだ慧可が雪中にあって自ら断臂したという故事は〔楞伽師賛記〕に初めて記され、〔續高僧傳〕では賊に遭って臂を断たれたとされる。
達磨の門人としては道育・慧可・尼総持・道副の四人が知られている。」
「また達磨は慧可に〔四楞伽〕と袈裟と伝法偈を授けたとされるが、伝法偈が記されるのは「寶林傳〕が最初である。
また〔洛陽伽藍記)では、達磨が一五〇歳の頃、洛陽の永寧寺の伽藍の華美なるを讃嘆して終日「南無」と唱えて合掌していた旨を記すが、歴史上の達磨を記したものとして注目される。
達磨が毒殺されたという記事は〔傳法寶紀〕が最初。
〔歴代法寶記]では、菩提流支と光統律師の二名が前後六度にわたって毒を盛ったという。
遷化の年としては〔寶林傳〕は後魏孝明帝丙辰(五三六)一二月五日とし、引用される法琳による慧可の碑銘によると大同二年(五三六)一二月五日とする。
また〔祖堂集〕は太和一九年(四九五)とし、〔景德傳燈錄〕も同一九年一〇月五日としている。
世寿一五〇歳であったという。
熊耳山に埋葬したが東魏使宋雲は葱嶺において隻履を携え西へ向かう達磨に遇い、帰国して棺をあばいたところ隻履のみ残されていたともいう。」
と書かれています。
『景徳伝灯録』にある記述をもとにして簡単に記します、
達磨様は、南インドの香至国の第三王子でした。
国王は、お釈迦様から第二十七代目の般若多羅尊者に帰依していました。
ある時に般若多羅尊者を宮中にお招きして、王は尊者に無価の宝珠を献上しました。
無価というのは値のつけようもない宝という意味です。
般若多羅尊者はその宝を手にして、三人の王子に問いました。
この宝珠をどう見るかと。
第一王子の月浄多羅も第二の功徳多羅王子も、この宝は世に七宝の中でも二つと無い、この上ない宝であり、般若多羅尊者あなたこそこの宝を持つにふさわしいお方ですと申し上げました。
第三王子の菩提多羅に尊者が聞くと、一人菩提多羅のみ「これは世間の宝であっていまだ真の宝ではありません。
あらゆる宝の中でも法、教えの宝こそ真の宝です。
この宝の光は世間の光であっていまだ最高のものではありません。
あらゆる光の中でも智慧の光こそが最高のものです」と答えます。
それを聞いて般若多羅尊者はこの者こそ大乗の教えを受けつぐにふさわしいものであると思います。
その後国王が亡くなって、宮中の者みな嘆き悲しみますが、第三王子菩提多羅だけは、王の棺の前でずーっと坐禅して禅定に入って七日間、禅定から出て速やかに般若多羅尊者について出家し、修行に励まれました。
菩提多羅から菩提達摩と名を改めました。
般若多羅尊者は菩提達摩に、お釈迦様が迦葉尊者に正法眼蔵、正しい教えを伝え、それから代々受けつがれてきているが、その教えを今汝に授けると言って、第二十八代を嗣がせました。
般若多羅尊者がお亡くなりにあるに当たって、「予が滅後六十七年後に、この地を離れて震旦、今の中国に赴き、そこで大法薬、即ち教えの薬を施して大勢の人を救うように」と託されます。
達磨様はその教え通り、海を渡って三年かけて中国に向かいました。
普通元年西暦五百二十年九月二十一日、広州に上陸したのでした。
当時中国は南北朝に分かれていて、南朝は梁が治めていました。
梁の武帝は既に「仏心天子」とまで称され、仏教に対する帰依が厚く、自ら袈裟をかけて経典の講義をなさるほどの方でした。
その武帝が遠くインドからお釈迦様第二十八代目の正法を受けつがれた達磨様がお越しになったと聞いて真っ先に出迎えます。
武帝はまず尋ねます「私は今まで即位以来たくさんの寺を造り経典を写し、多くの僧侶に布施してきました。
この私にどんな功徳がありましょうか」と。
武帝はさぞかしお褒めの言葉をいただけるかと思いきや、達磨大師は「並びに功徳無し」無功徳と答えます。
更に武帝は「この上ない貴い真理とは何ですか」と問いました。
それに対して達磨様は「廓然無聖」と答えました。
「廓然」は「がらんとして、広くあいているさま」「心が広くて性格がさっぱりとしたさま」を言います。
「廓然無聖」とは『広辞苑』には、
「(禅宗の語)からりと開けた悟りの境地においては、もはや捨てるべき迷いも求むべき悟りもないということ。
梁の武帝に聖諦第一義(仏法の根本真理)を問われた達磨が答えた語。「碧巌録」第1則に出る。」
と解説されています。
からりと開けて、広くさっぱりとして何の執着もない心境を言います。
更に「私の前に坐っているのは誰ですか」と問う武帝に、「不識」と答えました。
しかし武帝には伝わらず、達磨様は残念ながら武帝とは機縁がかなわない事を知ります。
そこで密かに揚子江を渡って北の魏の国に到りました。
からりと晴れた秋の空を見ると、達磨大師の言葉を思い起こします。
横田南嶺