気の病
「心配や苦労から起こる病気」と解説されています。
もっとも病気という字をみても、気を病むと書いています。
ところが、この「病気」という熟語は、私などがいつも使っている『漢辞海』を調べても、「病」という字の用例には出ていません。
諸橋轍次先生の『大漢和辞典』になると、ようやく「病気」という用例があって、「やまひ、疾病」と解説されています。
それなのに、『漢辞海』の「病」という字の意味には、「やむ、病気になる、わずらう」と解説されているのです。
諏訪中央病院のほろ酔い勉強会に招かれて、桜井竜生先生のお話を聞いて学ぶことがたくさんありました。
『皇帝内経』にあるという「古の病を治するは、惟だ其の精を移し気を変じ、祝由して巳るべし」という言葉から「移精変気」について学びました。
「移精変気」とは分りやすくいうと、気持ちをまったく別の所に移し、転換させる方法であります。
田代三喜という方の話を昨日致しました。
江戸時代には、今泉玄祐という医師がいて、この方の実例をうかがいました。
ある人が、夜喉が渇いて水瓶の水を飲みました。
翌朝その瓶をみると中にボウフラが湧いていました。
昔は今のような水道がありませんので、水は水瓶に汲んでおいて、それを飲み水や料理などに使っていたのでした。
ボウフラの水を飲んでしまったと思って、気をやんでしまい、ノイローゼ状態になってしまったのでした。
ボウフラそのものには問題はないのですが、ボウフラのわくような水には、問題があるかもしれません。
そこで今泉医師は、あらかじめ瓶の中にたくさんの赤い糸を切ったのを入れて置いて、その患者にたらくふくお酒を飲ませて、その瓶の中に嘔吐させました。
赤い糸がたくさん、吐いたものの中に浮いているのを確認させて、お腹のボウフラはみんな出てしまったと告げたのでした。
それを見て安心して病は治ったという話でした。
これなどは、気の病というものでしょう。
この「移精変気」の実例として桜井先生の体験談をうかがいました。
ある七十代の女性が、目の奥の痛みを訴えました。
いろんな治療を試みましたが、効果がありませんでした。
そこで、桜井先生は、まずは西洋医学の治療をしっかり受けることを薦めておられました。
それでも原因もわからず、痛みも治らないのでした。
桜井先生は、その方に年齢的にも胃がんのリスクがあるので、一度検査するようにと薦めて、二ヶ月先に検査の予約を取っておいたそうです。
そうすると、二ヶ月の間、その方は胃がんのことが気になってばかりいて、目の痛みは気にならなくなっていたのでした。
二ヶ月経って検査してみると、胃カメラで調べても胃に異常は無く、目の奥の痛みも無くなっていたというはなしです。
胃がんという命の危機を感じるような思いをすると、目よりも強い心配事になって、痛みを忘れるというのであります。
中国の古典にもこんな話があります。
禅語では「客盃の弓影、蛇疑を生ず」と言います。
一般には「杯中の蛇影」と言います。
『広辞苑』には「[晋書(楽広伝)](蛇の姿が見えた杯中の酒を飲んで重病になった人物が、その蛇は壁にかけた弓に描いた蛇の漆絵が映ったものだと分かったとたんに治ったという故事から)疑えば、何でもないことでも神経を悩ますもとになることのたとえ。」と解説されています。
と解説されています。
楽広という人がいて、今まで親しくしていた友人がいたのですが、最近見えなくなっていました。
どういうわけか人に聞いてみると、病気だというのです。
前回楽広に招かれてお酒をいただいたときに、杯に口をつけようとした瞬間、その杯の中にヘビの姿が見えたというのです。
もちろん実際にヘビがいたわけはありません。
そのとき、心の中で「これは不吉な前兆ではないか」と嫌な思いになってしまい、そのお酒を飲んでからというもの、ずっと病に臥せっているという話なのです。
その話を聴いた楽広は、その酒席を設けた部屋に行っていろいろ調べてみたら、壁の上に弓型に曲がった角の飾り物があったのです。
それにヘビの絵が描かれていたのでした。
「さかずきの中のヘビ」というのは、このことだと思って、再び友人を招待しました。
そうしてまた、同じところにお酒を出して、彼を座らせました。
酒を注いで、「さかずきの中には、何か見えるか」 と問いました。
その人は苦しそうに前回と同じヘビが見えると言います。
楽広は壁の上を指さして、飾り物に描いた蛇の絵が映っただけだと教えてあげたのでした。
「そういうことだったのか」と気がついて、病が治ったという話なのです。
元暁という新羅の華厳宗の僧侶がいました。
旅の途中で洞窟に泊まり、ある晩、喉の渇きを覚え、偶然に枕元にあった水を飲みました。
翌朝見ればその水は骸骨に溜まったものだと分りました。
そこで気が病みそうなところですが、元暁は、「すべては己の心が作り出すのだ」と気がついたという話です。
気を病んでしまうか、真理に目覚めるか大きな違いですが、これも気の持ちようであります。
横田南嶺