開山忌に千回
皆様のおかげであります。
ありがとうございます。
また実に奇しくも、千回を迎えた今日が、円覚寺の開山仏光国師の命日の法要である、開山忌が行われる日なのであります。
元来仏光国師は、弘安九年(一二八六)、九月三日に遷化なされました。
円覚寺では一月遅れの十月三日に開山忌という法要を行っています。
前日の二日に三時から、宿忌という法要を行います。
まず仏殿でお経をあげて、それから開山堂のある正続院に移って、舎利殿で読経します。
この舎利殿と唱えるのが楞厳呪というお経なのですが、この開山忌の時だけ、「真の楞厳呪」といって、独特の読み方をします。
この為の稽古を山内の和尚様が繰り返して臨むのです。
三日の朝は、まず早朝に仏光国師にお粥を差し上げる読経をします。
仏殿でお経をあげ、更に舎利殿でお経をあげて、そのあと、開山堂の裏の山にある仏光国師のお墓にお参りします。
管長として正式にお墓にあがるのは、この開山忌の時のみです。
袈裟を着けて正装して登ります。
それから十時から舎利殿で、前日と同じく「真の楞厳呪」を唱えます。
その前に、管長は開山堂に上って三拝します。
開山忌には、道具衣、九条袈裟という開山忌の時に身につける特別の法衣と袈裟があって、これを着用するのです。
これが一番の正装なのです。
そのあと仏殿でお経を唱えます。
だいたいお昼までかかるのです。
『円覚寺史』には玉村竹二先生が仏光国師の事を「国師は本来情に脆い人で、あらゆる人に温情を以て接し、他人の憂喜についても、同情を寄せることが多大であった」と評されています。
また仏光国師は、三十歳から三十七歳まで白雲庵で母を養って孝養を尽くして庵居されています。
その七年の間に作られた『白雲庵咄咄歌』は、仏光国師の語録の中でも白眉と言われています。
玉村先生も「国師の母に対する優しい思い遣りと、母と二人寂然と庵居してる心情を吐露して、人の心を打つものがある」と書かれています。
仏光国師は、宝慶二年(一二二六)に、明州慶元府に産まれました。
十二歳の時父と共に山寺に遊んだ折に、ある僧が「竹影、揩を払って塵動ぜず、月、潭底を穿って水に痕無し」と吟じたのを聞いて、出家を慕ったと伝えられます。
これはご自身の句ではありませんが、少年時代に聞いて感慨を覚えたということはすぐれた感性を幼い頃から備えていたと分ります。
国師は十四歳で径山に上り、初めて無準師範禅師に参じました。
十七歳に趙州無字の公案を与えられて、本格的に参禅修行を始めました。
しかし、この無字の公案、はじめは一年くらいでなんとかなるだろうと思っていたのですが、五年経っても全く悟るところがありません。
ようやく二十二歳のある日、朝まで坐禅して首座寮前の板声が三回打ち鳴らすのを聞いて本来の面目が一時に現前したという体験をします。
ただちにその心境を漢詩に表して無準師範禅師に呈しますが、その時にまだ悟境を認められるには到りませんでした。
無準師範禅師の遷化の後、石溪心月、偃溪廣聞、虚堂智愚など当時の名だたる禅匠に歴参し、三十歳の時物初大観禅師のもとで修行僧のためにお手洗いの掃除をする役を務めていて、まさに井戸水を汲もうとして轆轤の回転する音によって大悟しました。
三十歳から七年の間、白雲庵で庵居して母と暮らします。
この三十代のもっとも気力体力の充実したときに、閑居の暮らしをして心境を更に深めます。
国師はその後四十四歳の時に、台州真如寺の住持に招かれます。
七年ほど住することになりました。
五十一歳の時に、元軍の侵入によって兵乱が相次ぎ、難を逃れて鳫蕩山能仁寺に仮住まいしていました。
その折りに寺にも元の兵士が侵入し、寺の者達は皆逃げましたが、国師一人は坐って動かず、兵士が刃を頸に加えましたが、顔色ひとつ変えずに偈を唱えました。
国師の泰然自若たる様子に打たれて、元の兵士達も退いたと言われます。
弘安二年(一二七九)、国師が五十四歳の時に、天童山の環渓惟一禅師のもとにいました。
その折り、日本から北条時宗公の使者が環渓禅師を招聘する為にやって来ました。
しかし、環渓禅師は高齢の故に辞退され、そのもとで第一座であった国師が、日本に行くこととなりました。
かくして鎌倉に見えて建長寺に住しておられました。
弘安四年(一二八一)、二度目の元の来襲に遭います。
その時に時宗公に与えた言葉が、「莫煩悩」だと伝えられます。
但しこの話は、国師の語録や行状には見当たらず、『元亨釈書』に伝えられているのみです。
元寇の翌年、時宗公は円覚寺を建立します。
そこで戦いで亡くなった多くの兵士の霊を弔う為に千体のお地蔵さまを造って納めました。
その折に国師は、敵味方を区別せずに「冤親平等」の教えに基づいて日本兵のみならず、元軍の兵士も共に弔いました。
今も円覚寺仏殿には、「文永弘安両役彼我戦没者諸霊位」の位牌が祀られています。
かくして弘安五年(一二八二)十二月八日、円覚寺開堂の儀式が行われたのでした。
国師は、弘安九年(一二八六)、九月三日に遷化なされました。
御遷化の日、九月三日、昼食のあと、衆の為に示された言葉には、日本に来て「受苦八年」とあります。
異国に来て以来如何にご苦労が多かったことか、察するに余りある一言です。
八年苦労したが、今晩もう楽にさせてもらえるという気持ちの言葉を残されています。
かくして六十年のご生涯を終えられたのでした。
仏光国師のお弟子は数多くいらっしゃり、仏光派と称されるようになりました。
そのお弟子の一人高峰顕日、仏国国師のもとから夢窓国師が出られ、夢窓国師は京都に天龍寺を開創されたり室町時代に活躍なされまました。
京都では、相国寺さまも夢窓国師の開山であります。
京都にも鎌倉にも仏光国師の教えは脈々と伝わっているのです。
横田南嶺