震災余話
その中に
「寿徳庵の石窓老師は庫裡で圧死され、又、続灯庵は火災をおこし、女性が一名亡くなっています」と書いたのでした。
朝比奈宗源老師の「大震災回顧」には、
「心配した通り石窓老師は庫裏で圧死され、又、続灯庵は火災をおこし、婆子一人は建物の下敷きとなり、はさんだ大木材の切断ができないため、不憫にも焼死した。」と書かれています。
先代の管長であった足立大進老師は、震災の時の円覚寺の状況についていろいろとお調べになっていました。
私がまだ修行時代のこと、老師のお伴をして、栃木県のお寺を訪ねたことがありました。
その寺の老僧が、震災の時に円覚寺の續燈庵に住んでいたので、震災の時の様子をうかがいに行かれたのでした。
私も老師のおそばで、老僧から震災の時の話を聞いていた覚えがあります。
先日そのご老僧の御孫さんにあたるご住職から震災についての貴重な資料をいただきました。
その寺の老僧は、当時円覚寺の續燈庵の住職だった方の養子となっていたそうなのです。
焼死されたのは養母だと仰っていましたので、今で言えば住職の奥様ということでしょう。
奥様と書かずに、「婆子」と表現されたのは、まだ円覚寺の山内では独身を尊ぶ気風が残っていたからだと察します。
老僧は、鎌倉中学(現在の鎌倉学園)を卒業して京都の大徳寺で修行して、續燈庵に戻って東洋大学の学生だったそうです。
震災の時に老僧は、お手洗いの中にいたとのこと、激しい揺れで柱に頭をぶつけて脳震盪を起して気絶してしまい、妹さんの呼びかけで意識がもどったものの、柱のひずみのために戸が開かずに脱出に難儀されたとのことでした。
なんとか脱出したものの、續燈庵の本堂も庫裏も倒壊しました。
その日、續燈庵には寺の総代さんが来ていて、総代さんを接待するために天ぷらをあげていたとのことで、そのかまどの火が燃え広がったのでした。
老僧の養母の方は大きな部材の下敷きとなって身動きが取れなかったそうなのです。
阿倍能成選集第一巻に「或る禪坊の焼失」という文章があることを教わりました。
安部能成というのは、『広辞苑』には、
「哲学者・教育家。
松山生れ。東大卒。夏目漱石の門下。
京城大教授・一高校長を経て、第二次大戦後文相・学習院長。著「カントの実践哲学」「西洋道徳思想史」「岩波茂雄伝」など。(1883~1966)」と書かれています。
震災の時には、四十歳でありました。
大正十二年の三月から續燈庵の一室を借りて一週間のうち日曜日を含めた三日間を過ごしていたとのことなのです。
安倍氏は、八月三十一日に信州にでかけたのでした。
その明くる日が震災でありました。
十月になってようやく安倍氏は円覚寺に行くことができたのでした。
その時のことを次のように書かれています。
「円覚寺の山門は聴いた以上にしつかりして居たが、 佛殿も大方丈も特別保護建造物の舎利殿も皆、グシャリと屋根の下になったままであつた。
…此等の屋根はそのままになって堀返されても居ない。
多くの佛體もそのままに屋根の下に敷かれて、砕かれたままに腐ってしまひはすまいかと思はれる程である。
續燈庵の跡は石段がすっかりこはれてやつと匍ひ登ることが出来る位である。
然し焼跡には何一つ燃残りも無く、綺麗に灰になってなだらかに波打ったままぢつと打鎮まって居る有様は、却て見る私の心持をも静かにしてくれた。
私は焼跡に対しておかみさんの冥福を念じた後、暫くはそこに佇立して居た。
円覚寺の向こうの松ヶ岡の東慶寺へ行つて見ると、住職は法被姿になつて後片附けをやつて居る。
国寶の観音様が救ひ出されはしたが痛々しく腕が折れて居る。
薬師様だったかはわづかに首だけがこはれずに残って居る。
住職の話によるとちやうど九月三日が開山忌なので、地震の日には相談の為に大方丈へ一山の坊さんが集つて居た。
そこへあの騒ぎであつたが、 下敷きになった人達も大方は出た。
その内に逃げそこなった壽徳庵の老僧をこの住職はかかへて出ようとしたが、 再度の震動ではね飛ばされてそれもかなはず、 自分は大黒柱を探しあてて其下に観念して坐って居たが、 眼を開くと上の方に明るみが見えたのでそこからかき出た、續燈庵でも下敷きになったおかみさんを助けようと手を捕へてひつぱつたけれども、 それは力に及ばなかつた。
其内に火がまはつて来て遂に見殺しにせざるを得なくなった、老僧は泣いて助けてやってくれと叫んだけれども、 そのかひはなかつた。」
というのであります。
焼死された方のことを安倍氏は、
「此度の震災火災では此以上悲惨な目にあった人はいくらもあるであらう。
しかし私の知った人の中ではこの人にまさる気の毒な人はなかった。
其と同時に折角小まめに年を取るまで苦心して維持して來た寺を焼き、其上に老後を介抱してくれたおかみさんをむごたらしく死なした老僧の心中も亦気の毒である」と書かれています。
またその女性について安倍氏は、
「歯を黒々とそめた、聲の美しい、どこかに垢抜のした所のある人であつた。
かうしてかういふ山寺の老僧と一緒に暮すまでの生活には、様々の曲折があつたことであらうが、少なくとも現在の彼女は、この奥まった禅寺の物静かさをかき乱すやうな、それとそぐはないといふ處は一つもなかった。」
とも書かれています。
いろいろの事情も知っていただけに、安倍氏にはより一層気の毒に思えたのでありましょう。
文章にすると、一人の女性が焼死したというだけになりますが、深い事情があるのです。
安倍氏は、老僧について悄然として灰になった寺を見捨て、秋風と共に苦しい息を喘ぎつつ故郷へ帰ったと書かれていますが、老僧は續燈庵で亡くなったと、この度教えていただきました。
安倍氏は最後に
「圓覺寺に住む坊さん達は、人間を逃れて自然に隠れた鴨長明見たいな人々ではなかつたらうが、圓覺寺のある處は少なくとも世間を離れて自然に親しみ深い小さな別世界であつた。
しかし天地の變動は決してここをも見捨てはしない。
山里に身を隠すべき宿を求めても、人間の住む所は遂にそこに火宅を形造らずには居られない。
しかし大地の兇暴な震動が殊にこの静謐な境に烈しかつたにも拘らず、續燈庵の焼亡はまた、都會の中心に阿鼻焦熱地獄を現じた悲惨には似ぬ、寂しい静かな雰囲氣に包まれて居る。
それにしても本来無一物を説き、火も焼く能はず水も漂はす能はざるものを求めるこの修道場に居た一山の僧徒の中、一人でもこのなくてはならぬものを此度の事によつて証した人があつたらうか。
大黒柱の下に瞑目して坐つて居たといふ東慶寺の住持に問ひたいこともこれであった。
しかしこれは他人に問ふよりも自分に問ふべきことである。
「無事是貴人」の境も、水火を潜つて来たものでなくては遂にはかないものである。
天地の大變が私に與へる様々の問題は、私には結局この一つに帰するのである。」
と結んでいます。
厳しい見解であります。
火にも焼かれず、水にも溺れないものをはっきりさせることこそ、禅の修行の眼目なのであります。
横田南嶺