拝む心
引用します。
拝む
科学時代の人間は
誰も知識としては
天地万物が人間生命と
同質であることを知っている
私自身は星の一かけらであり
一片の雲なのだ
だがいまの人は昔の人のように
お天道さまお月さまを拝みはしない
山の神 水の神 森の神を拝まない
地球資源を守らねばならぬといいながら
自分自身の欲を切りつめない
物を大事にするどころか
自分が快適生活するためには
物の浪費は当然のこととしている
とにかく両手を合わせ
一切万物を謙虚に拝もう
事実私の出会う一切は
私自身のいのち分身なのだ
私の前に在る
私自身のいのちを拝むとき
拝む拝まれるは一つとなって
初めて不二のいのちが成就する
このいのちのなか 私は静かに
祈りつつ安らう
ただ拝む
畢竟帰るわが内の
み仏のもと いま帰りつつ
というものです。
またこの本の終わりには、「拝む心を拝みつつ」という題の章があります。
その中には、次の言葉もございます。
こちらも引用させてもらいます。
「大空も拝む。お天道さまも拝む。 お月さまも拝む。雲も拝む。風も拝む。山も拝む。水も拝む。
暑さも拝む。寒さも拝む。人々も拝む。木々も拝む。野の花も拝む。造り花をも拝む。
塵芥、廃棄物をも拝む。 神仏の顕現として拝む。 いのちの顕現として拝む。
お釈迦さまも拝む。イエスさまも拝む。すべてすべて仏の御いのち、有りて在る者、神の御いのちの深さとして拝む。
喜びも拝む。悲しみも拝む。快楽も拝む。苦痛も拝む。幸福も拝む。不幸も拝む。欲情も拝む。憤怒も拝む。怨恨も拝む。
拝むときすべては消え失せて、ただ浄仏国土、有りて在る者神の国のみあり。ただ限りなく拝みつつ、この浄仏国土、神の国の深さに近づかん。
限りない深さのいのちを拝みつつ安らい、拝む深さに安らいながら限りなく歩む。限りなく進む永遠の御いのちの故に、拝む心を拝みつつただ歩む。
という言葉であります。
内山老師の至り得た高い心境をうかがうことができます。
円覚寺で発行している季刊誌『円覚』三四三号秋ひがん号にも、私は「拝む心で」と題して原稿を書いたのでした。
拝むというと、まず一番に思い起こすのは、『法華経』に出てくる常不軽菩薩のことです。
『円覚』誌には次のように書いています。
「『法華経』は、大乗仏教を代表する経典でありますが、内容は難しいものです。
かの白隠禅師も若き日に、この『法華経』を読まれたのですが、その意味が分らずに落胆されたというほどであります。
難しい上に、大部の経典です。
しかし、その精髄がわずか二十四文字に要約されるとも言われます。
それは、「我深敬汝等 不敢輕慢 所以者何 汝等皆行菩薩道 當得作佛」の二十四文字です。
訓読すると、「我深く汝等を敬う、敢て軽慢(きょうまん)せず。所以(ゆえん)は何(いか)ん、汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」となります。
意味は、「わたしは、あなたがたを深く敬います。絶対に軽蔑しません。なぜかといいますと、あなたがたはみな菩薩の道を実践して、将来は必ずや悟りを開き、仏になられるからです」というものです。
これは常不軽菩薩という方が、経典の読誦などはせず、どんな人でも会う人ごとに、こう言っては礼拝していたというのであります。
たとえ遠くにいる人々を見ても、そこへ近づいて行っては、「わたくしは、あなた方を軽んじません。あなた方は皆、仏になるのですから」と礼拝をしていました。
ところがそのように言われても、不愉快に思う者もいて常不軽菩薩を罵ることもありました。
それでも決して怒ることもなく礼拝を続けていたのでした。
時には杖で打ち、石を投げつける者もいましたが、礼拝をやめることはありませんでした。
この菩薩の心こそが『法華経』の真髄と言われており、かの良寛さんもまた、この常不軽菩薩を心から尊敬して、「僧はただ万事はいらず常不軽菩薩の行ぞ殊勝なりける」と詠われています。」
というものです。
そのあとに、私が初めて禅寺で坐禅した小学生の時のことを書いています。
小学生だった私は、世の中で一番偉いのはお寺の和尚さんだと思っていたのですが、それよりももっとお偉い「老師」と呼ばれる方がいらっしゃるのだと知りました。
その老師という方は、実に小柄な老僧でしたが、ご本尊の前に進みでて、焼香をされて三拝されるお姿がいかにも尊くて感動したのでした。
そして更に驚いたのはその老師が、お話を始められて、最初に仰ったことが、「今日ここにお集まりの皆さんは仏さまであります」という言葉であり、そして、皆を見渡して恭しく手を合わされて拝まれたのでした。
その時には、まだなぜ老師がこのようなことを仰るのかよく分りませんでした。
しかし、あれから何十年と坐禅をしてきて、その通りだと思うのであります。
『円覚』誌には、そのあと、神渡良平先生の『いのちを拝む』の本を紹介して、新潟県十日町市にあるNPO法人支援センターあんしんのことを書いています。
高校生の時に、当時妙心寺の管長に就任された山田無文老師にお目にかかることができました。
そのなんとも神々しいお姿にも感激したのでした。
いったいどんな修行をすれば、このように神々しくなれるのだろうかと不思議に思ったものです。
のちに山田無文老師の本の中で、次の言葉を見つけて、これだと思ったのでした。
「私は毎日起きますと輝くお日様に手を合わせます、月が残っていれば優しいお月様にも手を合わせます。見えない空気にも手を合わせます。顔を洗う水にも手を合わせます。お粥の中の米粒にも沢庵にも手を合わせます。
お前は何という馬鹿者だ、太陽や月を拝んでどうするのか、空気や水どころか沢庵にまで手を合わすなんて、とお笑いになる方がいるかも知れませんが、わたしはそういう馬鹿でありたいのです、阿呆で結構なのです。それでも私は拝まずにはいられないのです、手を合わさずにはいられないのです」
手を合わせて拝む心こそ宗教の本質です。
坐禅もまた拝む心そのものであります。
拝む心を大切したいと思って『円覚』誌に書いたのでした。
横田南嶺