信心の道
昭和五十四年にお亡くなりになっていますので、四十三年前のことであります。
かつて毎年このご命日にお参りになる老僧がいらっしゃいましたが、その老僧もお亡くなりになってしまいました。
ご命日には修行道場で、法要を行っています。
朝比奈老師のことを思って、朝比奈老師が三十一歳の時に教えを受けられた村田静照和上の本を読み返していました。
『村田静照言行録』には、朝比奈老師が村田和上のことを追憶して講演された講演録が載せられています。
その一部を紹介しましょう。
朝比奈老師が、仏道に入る機縁から、村田和上に出逢うまでの話です。
朝比奈老師がお話になった口調のままに書かれているところが興味深いものです。
「私は禅宗の坊さんでござんすが、私は少年の時、数え年五つの時母に死なれ、それが縁で子供という者は妙なもんで親がチャンとお葬式をして頂いて葬った事を見ていても自分の親が死んで亡くなってしまったと想い度くないのか、想えないのか、人の親のあるのを見ると、自分の親も何処かにいて、いつか出て来て、「大きくなったナア」といって、頭の上に温い手でも載せてくれるかと、こういう事をよく思ったもんです。
そういう事があり相な気がしたもんです。
そんな事でして、私も死んだ親に対して、色々な少年の時を話すときりがない位話がありますが、私がほんとうに仏様という事にふれたのは、九つの年の二月十五日のお釈迦様の涅槃の日に私の寺ー私は静岡県の駿河ですがー矢張り禅宗の寺で、そこへお参りにいってお釈迦様のお涅槃の像を拝んだ。
お釈迦様がおかくれになって、人が集まって泣いている絵です。
そこには人間だけでなくて、動物や虫けら迄集まって、嘆いて泣いている大した絵です。
あれはネ、で、これも立派な絵があるもんですから、和尚さまに、之は一体どういう絵かときくと、
「これはお釈迦様がおかくれになって、こんなにみんな泣いているんだ。
お釈迦様は世界で一番智慧のある一番慈悲深いお方だ。
そのお方がおなくなりになったから、こんなに嘆くんだ」と聞いた。
私は大した人もあったもんだと之を拝んだのですが、よく拝むというと、どうも死んだ人の様な淋しい顔をしていないで、立派な顔をして、健康な人が昼寝をした様に画いてある。
お釈迦様は死んだというのに、死んだ人の様な顔をしていないではないですか、というと、
「そうです、お釈迦様はほんとうは死んでも死なないのです。
ほんとうは死なないのだから、死んだ様には画いてないんだよ」と、こう云われた。
之が私を非常に驚かしたのですネ。
お釈迦様は特別偉い人だから、死んでも死なないのだろうか。
それとも、私の親も死んでも死なないのだろうか。
その点を明らかにし度いとこう思い出しましてネ。
私の青少年時代ついにそれやこれやで、私はまあ省略しますけれども、数え年十二の頃に禅宗の寺ですが静岡県では有名な興津清見寺というお寺がありますネ、三保の松原清見寺といわれている寺ですネ、あの寺へ上って、小僧になった。それから、禅の修行をする様になった。」
というのです。
それから妙心寺の修行道場で修行して、この生死の問題に解決をつけられ、更に仏教学を学び、鎌倉の浄智寺の住職になられたのでした。
そんなある日のことです。
大きな転機が訪れました。
これは朝比奈老師の『覚悟はよいか』から引用します。
「儂のいとこで、儂が三十一歳のとき八十歳だった老人だ。
儂が一寺をもち、田舎へ帰って法事の席で儂は儂なりの心境を語ったとき、この老人にぴしゃりとやられたんだよ。
いや、当人には、儂に鉗鍵を下すという気は毛頭ない。
大真面目で、そういう儂と自分の宗教的距離に絶望しただけのことだが、儂にはこたえた。
あんたはいい、という。
あんたは死んでも死なない仏道の真理に目ざめるには、禅さえすればわかるという方法を知り、実際に参禅し、禅によって仏道の真実を得た。
ところが自分には、もうその道をきわめる気力もない、という。
話はそれだけだ。それだけだった儂にとっては初関以上の驚きだった。
よほど大きかったのだろうな、その驚きが。
以来、儂はその老人の言葉を背負って歩くことになる。
坐禅もできないものは、どうなるのか。
仏の悟りから見放されているのかー。
儂は苦しんだな。
その苦しみは、あるいは死んでも死なないという課題を抱いて坐禅三味に入っているよりひどかったようだ。
なぜだ、なぜだ、と自分に問うてな。
そんなとき村田静照という偉い人に会ったのだ。真宗高田派の人だ。」
というように村田和上に出逢うのです。
その頃の村田和上のお寺の暮らしというのは、まさに修行道場のようなものであります。
朝比奈老師の講演録から引用します。
「私が行ったとき、朝はネ、六時半かそこらに起きて顔を洗ったり御飯を食べたりして、安部さんという人のお寺が近くにあって、そこへ八時頃迄お念仏しながら行って、そこで安部さんからお話を伺って戻って、大体八時から十一時までがお念仏でした。
それからお昼を食べて、そして午後は一時半から午後の五時頃迄お念仏して、それからお夕飯を頂いて夜まア八時頃からか、十二時頃迄という事でして、これが毎日繰り返されるのです。
和上がこんな所へ出てきて座って居られることもあり、座って居られぬ事もあるが、まアそのナンデスネ、私が行ってからは、よく出られたンです。
誰やらがきて「朝比奈さんがおいでなってから和上もよく出て法話せられる」と喜んでくれた人があったンですが、和上は何か都合があるとダマーって自分の部屋でお念仏して居たりネ、出ない日もあったらしいですネ。
そこンところは実にとらわれない人ですネ、お念仏してシュショウ相にして居たかと思うと、ナニが「グアー」といって大きな口をあけて虎のようなアクビをしたりネ(爆笑)
ナアといってうなって居るかと思うと居眠りをしたりネ、 そうしておいでる同行衆もまア、男の人は大体そうでもないが、婦人の人、特に若い方は奇麗なまア可愛い声をして「ナンマンダア〱」と鈴虫が鳴く様な声をして念仏して下さるかと思うと中には破れ鍋をたたく様にどなりちらすンですネェ(爆笑)
そりゃもう全く鈴虫とガチャガチヤと一緒に居る様なモンデネ実に愉快だったネ、それで皆がお念仏を止めると短い御法話があって、それが又実に有り難い御法話ナンです。
実にまあ殺活自在というか、師匠と弟子との間が一体となってですネ、何もかも忘れてしもう。 そりゃもう大した御法縁でしたよ。」
という暮らしなのです。
かくして朝比奈老師は、そんな村田和上のもとで、信心の世界にも目覚められたのでした。
『覚悟はよいか』には、
「仏心は、絶対に一切衆生から離れない。
こちらからいえば、逃げようにも逃げられないのだ。」と説かれたあとに、
「それほどの仏心に恵まれながら、なぜ、人にそれを教えないのだ。
悟らなきゃわからんなんて、自分ひとりの世界に閉じこもっているのだ。
禅に「信心」があっていいはずではないか。
いや、禅にこそ「信心」の道がなければならぬ。
修行者も、そうだ。たとえば井戸を掘るときに、この下に水脈があると信じるからこそ掘るのであって、それと同じじゃないか。
悟りの道といったって、最初は信じる信心から入っているじゃないか。」
と説かれているのです。
仏心の信心を説かれた朝比奈老師のことを思う八月二十五日でありました。
横田南嶺