拝むとは自分をなくすこと
ページを開いたら、はじめにこんな言葉が書かれていました。
拝むというのは自分をなくするのです。
自分をなくすると全体が自分である。
という西田天香先生の言葉であります。
短い言葉で、禅の修行で目指していることが言い尽くされています。
折から、森本省念老師の本を読んでいると、
坐禅をすると自分が消えてゆく
そして衆生というものが顕われてくる
衆生の悩みが、じかに自分のものになってくる
自然にそこからいのりとか願が出てくる
という言葉がありました。
全く相通じていることがよく分ります。
『日日行持集』には、朝課という朝のお勤め、それから晩課という夕方のお勤めで読むものなどが書かれています。
そして、驚くのは経典だけでなく祝詞やキリスト今日の主の祈りなども入っているのです。
朝のお勤めには、維摩経の偈文や、西田天香先生の「一事実」という文章に、光明祈願が読まれているようです。
光明祈願というのは五つの願いの言葉です。
光明祈願(暫定)
「不二の光明は宇宙に遍満する陽光の如し」
とあります。
不二の光明というのは、宇宙に普く満ち渡る太陽の光のようなものであり、大自然であり神仏そのものを表わしています。
そこから第一に、
「不二の光明によりて新生し許されて活きん」
その大いなる不二の光明によって、新しく生まれ直して、許されて生きるのです。
神仏に委ね養われて、まわりの人の妨げにならないように努めるのです。
この言葉に一燈園の精神が込められているように感じます。
二番目に「諸宗の真髄を礼拝し帰一の大願に参ぜん」
諸宗教の真髄を礼拝して、その大元となる大きな願いに参じるというのです。
根本の願いとは、すべての人がともに大いなる円満な悟りに達することを願うのです。
そこから更に、世界が真の平和をもたらすように願うのです。
次に「懺悔の為に奉仕し報恩の為に行乞せん」
懺悔の気持ちをもって、奉仕し、ご恩に報いる為に托鉢をするのです。
それから「法爾の清規に随い世諦を成ぜん」
天地大自然の法則に則って、実社会の中で真実を行じるのです。
そして「即ち天華香洞に帰り無相の楽園に逍遥せん」
天華香洞とは智慧の静かな光明に満ちた安らかな世界です。
私達でいうところに仏心の世界に通じるものであります。
そこに帰って、この世がそのまま相のない楽園であって、その楽園に遊ぶというのです。
具体的な懺悔奉仕の托鉢行として、一燈園では、六万行願というのを実践されています。
これは他所のお宅に入って、おトイレの掃除をさせてもらう修行です。
おトイレの掃除をさせていただくことを通じて下坐の心を養い、争いのない世界の将来を祈り念ずる行なのです。
一日に十軒、一年に百日、それを十年続けると一万軒になります。
それを六つの祈りをこめて行うので、六万行願というそうです。
六つの祈りとは、
一、礼拝。拝ませてもらう
二、下坐。一番下の事をさせてもらう
三、奉仕。何なりとさせてもらう
四、慰撫。慰めさせてもらう
五、懺悔。あやまらせてもらう
六、行乞。いただかせてもらう
こういう精神で修行されているのが、一燈園の方々であります。
この頃は、私たちの托鉢でも、町に出て一軒一軒お家の前でお経を読んでいると苦情が来ることが増えました。
警察に通報されることもあるようになってきました。
一燈園さんのように、お宅の中に入っておトイレの掃除をさせてもらうのはとても難しくなっているのではないかと思って、先日一燈園の西田多戈止当番にうかがってみました。
やはり、コロナ禍となって、衛生観念が変わってしまい、家の中のおトイレを掃除させてもらうのは困難となっていると仰っていました。
それでも西田先生は、たとえ十軒、二十軒と断られても、一軒お掃除させてもらえれば、その喜びは喩えようがないのですと、嬉しそうに語ってくださいました。
『西田天香語録』には
「自分というものを殺さないでは、何をも得られない。
まず自分の持物を捨てぬようでは、ほんとの道心ではない。」
「仏様に還るに、何の知恵も進歩もいらぬ。」
「過去に対しては、「悪かった」と懺悔で切れる。
現在に対しては、「有難い」と感謝で切れる。
未来に対しては、報恩のために働かせてもらうので切れる。」
「何も求めずに、ただご恩返しに働かしてもらうのです。」
「楽しそうに、心から嬉々と見える托鉢でありたい。」
「本来自分の物、そんなものがあるはずがないのです。
無一物にいて祈りに祈る生活が、この上もない無尽蔵の宝を持つ、まことに如意宝珠であります。」
「拝んでいないとき、ほんとうに拝んでいることがあるのです。
力んだり騒ぎたてたりして拝むことは、仏には通じぬ。
静かに自分が仏とひとつになるように拝むのです。」
という言葉がございました。
どれも深い言葉です。
一燈園の托鉢はおトイレの掃除ですから、たいへんな行なのですが、「楽しそうに、心から嬉々と見える托鉢でありたい。」というのであります。
西田多戈止先生のことを書かれた『地球に許されて生きる』には、高齢な西田先生に「疲れませんか」と問うと、
「ワシは疲れることはないんよ、楽しくて仕方ない」と答えられたとありました。
本当に自分をなくして拝んではたらいていらっしゃるのだと思いました。
九十三歳でとてもお元気なので、私は何か健康法をなさっているのかうかがったのですが、何もないと仰っていました。
こうして自分をなくして拝んでいることが健康なのだと思いました。
そして「拝んでいないとき、ほんとうに拝んでいることがあるのです。
力んだり騒ぎたてたりして拝むことは、仏には通じぬ。
静かに自分が仏とひとつになるように拝むのです。」
という一言は深く胸に刻んでおきたいものです。
ここには、静かな光明と、その光明に満たされた喜びがあります。
それは楽しみの世界なのであります。
横田南嶺