仏心があらわになる
かつては、七月の二十日から摂心をして、二十六日が講了でありましたが、近年の暑さの為熱中症になる修行僧もいたりして、七月の前半に移動させたのでした。
しかし、この頃は、七月の前半でもかなりの暑さであります。
その講了の日もまた朝から厳しい暑さでありました。
森信三先生は、「われわれ人間も、この「暑い」「寒い」ということを言わなくなったら、おそらくそれだけでも、まず同じ職域内では、一流の人間になれると言ってよいでしょう。」と仰せになっていますが、ついつい「暑い」と口に出してしまうものであります。
修行道場での講座は、法衣に袈裟を着けて行いますので、全身汗びっしょりになります。
夏の風物詩のようなものでありますが、毎年たいへんでもあります。
講了では『坐禅儀』の最後の部分を講義しました。
その中に「水中に落ちた珠を探すには、まず浪を静かにすべきであって、水を動かしたのでは、珠を手に取ることはできない」という言葉があります。
更に「禅定という水が澄んで清らかになれば、心という珠はそれ自から姿を現わすのである」と説かれています。
学生の頃に、とある老師の提唱を聞いていた時、コップに入った濁り水をどうしたら澄ますことができるかと仰せになったことがあります。
その老師は、仰いました。
澄ませよう、きれいにしようと、あれこれすればするほど濁る。
そのまま静かにほおっておくと、自然と泥は下に沈殿して澄んでくるのだと仰いました。
坐禅もまた同じだというのでした。
雑念を払おうだの、心をきれいにしようだのと、あれこれすればするほど心は濁ってしまう、ただ静かに背筋を伸ばして呼吸を調えて坐っていれば自然と心は澄んでくるというのでありました。
なるほどと思ったものであります。
珠を探すというと、『荘子』にある話を思い出します。
中国の伝説の王である黄帝が、ある時赤水の北に遊んで、崑崙の丘に登って帰ってきましたが、玄珠というすばらしい珠を忘れてきたことに気づきました。
そこで黄帝は、すぐれた知恵を持っている知という者に捜させました
しかし、知はすぐれた知恵を持っていたのでしたが、探し得ませんでした。
更に喫詬(かいこう)という弁の立つ者に捜させましたが、それでも見つかりませんでした。
それから離婁(りろう)という、百歩離れた所からでも毛の先がよく見えたという、きわめて視力がすぐれた者に捜させました。
それでも見つかりません。
最後に、象罔(しようもう)に捜させたら、ようやく見つかったという話なのであります。
黄帝は、「不思議なことよ、ぼんやり者の象罔にこれがみつけられようとは」と言ったのでした。
不思議な話でありますが、長年禅問答を行ってきているとなるほどと思うのであります。
我々の臨済宗の修行では、毎朝毎晩禅問答を行っています。
昔から千七百則の公案があると言われていますが、禅書『無門関』には四十八則の公案という禅も問題があり、同じく『碧巌録』には百則の公案がございます。
その他にも『宗門葛藤集』とか『臨済録』などからたくさんの公案があります。
それぞれの公案について、老師の前で自分自身の見解を述べます。
それが古来より室内に伝わる伝統の見解と合致したと師家が認めたら、今度は、その公案の見解にふさわしい禅語を選んで示すことになっています。
これを「著語」といいます。伝統の著語には、白隠禅師などが選んだものが伝えられています。
この公案の見解を練るにしても頭でああでもない、こうでもないと考えると、まるで泥水をかき混ぜるようにますます分らなくなるものです。
ただ腰を立てて、呼吸を調えて深く禅定に入ることだけに心がけていれば、自然と公案の見解があわらになってくるのです。
自然とあらわになってきた見解を老師のところにそのままもってゆくと一番うまくゆくのだと長年行って来て気がついたものです。
そこで、公案の修行というのは、禅問答であれこれ考えることではなく、ただ静かに坐って深い禅定に入ることだけが問題なのだと分ったのでした。
更にそれぞれの公案に、『禅林句集』という禅語を集めた書物などから一語を選んで、師家に示します。
これを著語といいます。
師家から師家へと伝えられた伝統の禅語と一致すれば、そこでようやく次の公案に進むことができます。
何千という禅語から一語を選ぶので、伝統の著語と合致するのは容易ではありません。
これもまた頭であれこれ考えて捜すとかえって見つからないのであります。
姿勢を正し、腰骨を立て、丹田に気を込めて長い息で心を調えることに重きをおいていると、自然と禅語が見つかるということを幾度となく体験したのでした。
頭を空っぽにすることが大事なのです。
ぼんやり者の象罔が見つけることが出来たというのは、この頭を空っぽにすることを表していると思います。
あれこれ思い悩むことがあったら、あれこれ考えることはやめて、ただ腰を立てて丹田に気を込めて長い息をして頭を空っぽにしてみたらよろしいかと思うのであります。
そうすると、仏心があらわになってきます。
仏心は智慧と慈悲であります。
正しい智慧がはたらいて、自然と解決策も見えてくるものであります。
横田南嶺