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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.07.15
今日の言葉

坐禅は生涯かけて

『坐禅儀』の終わりには、次のように書かれています。

「そもそも、禅定という関門は、誰にもいちばんさしせまった務めである。

もしも心静かに坐禅し冥想しないかぎり、臨終の場になってあわてて気を失うほかはないであろう。

それで言うのである、「水中に落ちた珠を探すには、まず浪を静かにすべきであって、水を動かしたのでは、珠を手に取ることはできない」と。

禅定という水が澄んで清らかになれば、心という珠はそれ自から姿を現わすのである。

だから、『円覚経』にも、「けがれ無く澄み切った智慧は、必ず禅定より生れでる」といっている。

また『法華経』にも、「閑かな処で自分の心を修め、おちついて動くことなく、須弥山のようであれ」と教えている。」

と書かれています。

現代語訳は、筑摩書房の『禅の語録16』から引用しています。

「臨終の場になって」というのは、もとの言葉は、「這裏に到って」となっています。

這裏とは、臨終の時を表します。

いざというときであります。

静かに坐禅できていないと、臨終の時にあわてて気を失うというと、夢窓国師の話を思い出します。

夢窓国師が十九歳の頃です。

天台や真言という仏教学の講義を聴いたという時です。

その講義をしていた仏教学の先生が病気になって、茫然自失になって亡くなってしまった。

その死に様が悲惨だったのでした。

もうはたから見るに忍びなかったのでありましょう。

そのとき夢窓国師は、

「自分の思うところでは、仏法は真言宗とか天台宗とかいろいろあるけれども、その目指すところは煩悩の世界を出て仏道を会得するにあるだけだ。

私の先生は普段は仏教学についての知識が非常に深かった。

しかし、いざ死に臨むとなると狼狽して、仏教学の知識が一文字も役に立たなかった」

と思ったのでした。

これは、私が書いた『禅の名僧に学ぶ生き方の知恵』にある文章です。

「夢窓国師は仏教学の知識が実際の死に対して、なんら役立たないということを目の当たりにしたわけです。

そこで

「それによってわかった。

仏法は学問を学んで至るところではないということが。

禅宗というのは教外別伝といって教えや文字の他に伝えることがあるという。

これにはきっと訳があるはずである」

と思ったのでした。

あれだけ学んでいたのに、死ぬときに学問が何の役にも立っていないことを目の当たりにしたのでした。

結局、経典や書物を読むだけでは、その先生の域を超えることができないということを知り、教えや文字以外に伝えるものがあるという禅に気持ちが惹かれていくのでした。

しかし、禅に気持ちは惹かれているものの、まだ自分で確信は得られていません。

そこで夢窓国師は百日間の願をかけるのです。

仏様の前に願をかけて、ひたすら祈って仏様のお告げを待ちました。

そのように仏様に祈ったところ、その百日がまさに終わろうとした頃に夢を見ました。

その夢の世界で夢窓国師は禅宗の寺に連れて行かれました。

そして、 そこで会ったお坊さんが掛け軸をくれました。

その掛け軸を広げてみると、達磨さんの絵が描いてありました。

それを見て、はっと目が覚めました。

そのとき「ああ、自分はやはり禅宗に深い縁があるんだ」と思ったというのです。

そうして夢窓国師は禅の修行に打ち込まれるようになって、禅僧として名を成してゆかれたのでした。

更に『坐禅儀』には、

「してみると、迷いと悟りの分別を飛びこえるには、どうしても寂かな禅定の力を要する。 」
とあります。

迷いと悟りという二つの対立にお互いは迷い苦しみます。

迷いから悟りに到るというのではなく、迷いと悟りという対立を超えるのです。

また「坐ったまま死んだり、立ったまま死んだりするのも、禅定の力次第である。
死ぬまで努力しても、まだ間に合わぬかもしれぬ。

まして、ぐずぐずしていたのでは、どうして根強い煩悩妄想の業性に勝てようか。

だから古人もいっている、 「もしも禅定の力が無ければ、やすやすと死の関門に降伏してしまうほかはない」と。

目をつぶったまま生涯を空しくすごし、もとのように、煩悩生死の海中に流れ漂うだけであろう。

どうか禅の仲間たちよ、この文章を幾度も繰りかえして読み、自ら救われるとともに、また他を救う、もろともに正しい覚りを成就されよ。」

と書かれて、終わっているのです。

ここに「死ぬまで努力しても、まだ間に合わぬかもしれぬ」とあります。

「一生取弁するも尚蹉駝たらんことを恐る」というのがもとの文章です。

「蹉駝」というのは、「つまずく。時機をやりすごしてしまう。時が過ぎてしまう。つまずいて、思い通りにならない。事の運びがちぐはぐになる。」
という意味があります。

一生涯かけて取り組んだとしても、まだ十分ではないというのであります。

坐禅というと、禅僧としての修行の過程と考えるかもしれませんが、一生涯続けるものであります。

私などでも、まだまだだと思って坐禅の参究に勤しんでいます。

禅僧としては、坐禅していれば間違いはないと信じています。

坐禅ができる体を維持していれば、まず健康でありましょうし、坐禅できる心の状態であれば、過ちを犯すこともないはずなのです。

生涯かけて坐禅を実践してゆくのに当たって、その基礎を身に付けるのが修行道場での修行であります。

 
横田南嶺

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