曲げて人情に従って
岩波文庫の『臨済録』から入矢義高先生の現代語訳を引用します。
「成徳府知事の王常侍が部下の諸役人と共に師に説法を請うた。
師は上堂して言った、
「きょうわしは、やむを得ぬ仕儀で、なんとか世間のならわしに従って、この座に上がることにした。
しかし、禅の正統的立場に立って根本義を説くとなれば、まったく口の開きようもなく、お前たちの取りつくしまもないのだ。
しかしきょうは常侍殿の強っての要請ゆえ、ひとつ禅の本領を開き示そう。
たれか腕の立つ武将で、旗鼓堂々と一戦を挑んで来るものはおらぬか、皆の前で腕前を見せてみよ。」」
というものであります。
注目したいのは、冒頭の「山僧今日、事已むことを獲ず、曲げて人情に順って、方にこの坐に登る」という言葉です。
なぜ説法をするのがやむを得ぬ仕儀なのか、世間のならわしに従うことなのでしょうか。
これは、本来禅は説法するものではないという前提があるからであります。
「若し祖宗門下に約して大事を称揚せば、直に是れ口を開き得ず」とありますように、「禅の正統的立場に立って根本義を説くとなれば、まったく口の開きようもない」ものなのです。
薬山禅師に次の逸話が伝わっています。
薬山禅師は、西暦七五一年に生まれ八三四年にお亡くなりになっていますので、臨済禅師よりは少し先輩の禅僧であります。
これは中央公論社の「世界の名著18」にある『禅語録』、柳田聖山先生の「祖堂集」の現代語訳を引用します。
「薬山和尚は石頭につがれた。
朗州にある。先生は、本名を薬山惟儼といい、姓は韓氏、絳州の人で、のちに家族で南康に移った。
十七歳で出家して、潮州西山の恵照禅師に師事し、大暦八年、衡山寺の希操律師について受戒した。
先生はある日、俄かに考えた、
「一人前の男たるもの、戒法などにかかわらんでも、ちゃんと清浄である筈だ。何で布衣や帯など、末節の修行にあくせくできよう」
そしてそのまま、石頭大師におめにかかって、深奥の義をうけられる。
先生は、貞元のはじめごろ、澧陽の芍薬山に居を定める。
それで薬山とよぶのである。
先生が説法をはじめたときは、村長から牛小屋を貰って僧堂とされた。
住持となってまだ時もたたぬうちに、二十人ほどの人が集まる。
突如としてある僧がやってくる。
かれに院主(事務長)になって貰う。
だんだん増えて四、五十人にもなると、居ばしょが手ぜまである。
後の山上に小屋を建てて、和尚に上方にいってもらう。
和尚を上方におちつかせると、こんどはまた、僧たちを転転させておさまる。
院主の僧は、何度も先生にガイダンスをねがい出る。
和尚は一、二度は許さないが、第三度にやっとはじめて許した。
院主は大よろこびで、先ず人人に知らせる。
人々はよろこんで、こらえられない。
鐘をならしてのぼってくる。
僧衆が集まるやいなや、和尚は門をしめきって自室にもどる。
院主は外で責めていう、
「和尚さまは、いましがた私に説法をお許しくださいました。今はかえって説法しないで、どうしてわたくしをだますのです」
先生、「経の師ならちゃんと経の師があり、論の師ならちゃんと論の師があり、律の師ならちゃんと律の師がある。院主は貧道のどこに不服なのだ」
お経の解説なら、お経を解説する専門家がいるし、仏教の論書の解説ならば、その専門家がいる、禅僧である私が黙っていて何が不服なのかというのです。
又雲門禅師には次の逸話が残されています。
これは『碧巌録』にある話なので、岩波書店の『現代語訳碧巌録』にある末木文美士先生の現代語訳を引用します。
「ある時、劉王は師(雲門)に命じて宮殿内で夏安居を過ごさせた。
数人の長老達と共に、宮中の女性達の挨拶を受け、説法した。
師(雲門)だけは物言わず、また、近づく人もいなかった。
ある直殿使が次のような偈を書いて碧玉殿に貼り出した。
大いなる智慧をもって修行してこそ禅である。
禅門には沈黙がふさわしく、饒舌はよくない。
どんな巧みな言葉もどうして真実に及ぼうか。
雲門が全く物言わないのに負けてしまった。」
という話であります。
「禅門は黙に宜しく喧に宜しからず」とはよく知られるようになった言葉です。
雲門禅師は、西暦八六四年に生まれ九四九年にお亡くなりになっていますので、臨済禅師よりは少し後の方であります。
禅は元来一語も説くべきではないことをよく表した話です。
そんな世界であるのに、曲げて人情に従って説法をするのだと臨済禅師は仰せになったのであります。
山田無文老師も禅文化研究所の『臨済録』の中で、
「「わしは今日、好き好んでここへ上ったのではない。王常侍が、大勢の役人のために、何か話をせよと言われるので、曲げて人情に従ったまでのことじゃ」
禅というても、話すことは何もない。禅とはお互いの心の名である。心とは、形のないもの、姿のないもの、色のないものである。それを語れといわれても、語る言葉はない。何も話すことはござらんが、たって話せと言われるから、曲げて人情に従って、この演壇に立ったのである。」
と提唱されている通りなのであります。
言葉にならないところをなんとか示してあげようと、禅僧たちは、曲げてお説きくださったのであります。
横田南嶺