いろはうた
岩波書店の『仏教辞典』には、
「法隆寺に伝わる、推古天皇(554-628)の念持仏と伝えられる厨子。」
「本尊は盗難に遭って現存しない。須弥座(しゅみざ)の上に、鴟尾(しび)をあげた宮殿(くうでん)形を載せたもので、いずれも木製黒漆塗り、宮殿部の金銅透(すかし)金具の下に玉虫の翅を伏せてあるので、この名がある。」
と書かれています。
ジャータカの二景、施身聞偈(せしんもんげ)・捨身飼虎(しゃしんしこ)の絵が描かれていることでも知られています。
施身聞偈は、いろはうたのもとになっている話でもあります。
「いろはうた」は『仏教辞典』には、
「音(おん)の異なるすべての仮名を集めて、同じ仮名を重複させずに七五調四句47字にまとめた誦詩。
作者未詳。
「色は匂(にほ)へど、散りぬるを、我が世誰ぞ、常ならむ。有為(うゐ)の奥山、今日(けふ)越えて、浅き夢見じ、酔(ゑ)ひもせず」と読まれる。
雪山偈(せっせんげ)「諸行無常(しょぎょうむじょう)、是生滅法(ぜしょうめっぽう)、生滅滅已(しょうめつめつい)、寂滅為楽(じゃくめついらく)」の和訳に当るという」
と解説されています。
「雪山偈」とは、
「雪山童子が雪山において羅刹(らせつ)(食人鬼)から聞き伝えたとされる偈(詩句)。
「諸行無常(しょぎょうむじょう)、是生滅法(ぜしょうめっぽう)、生滅滅已(しょうめつめつい)、寂滅為楽(じゃくめついらく)」
(作られたものはすべて無常である。生じては滅していくことを本性とする。生滅するものがなくなり、静まっていることが安らぎである)の四句からなる。句そのものは原始経典の涅槃経」と書かれています。
雪山童子の話は、大法輪閣の『仏教聖典』から意訳させてもらいます。
お釈迦様がまだこの世に仏の出でまさぬころに雪山に住んで菩薩の行を修めていた時の話です。
お釈迦様はその時、広く大乗の教を求めていましたが、いまだ得ることが出来ませんでした。
その時、諸の神神がお釈迦様のことを不審に思いました。
「この者は、欲の躁がしい思を去って、寂かな心を持っておる離欲の人である、恐らく来世には帝釈の神にでもなろうと思うているのであろう」と考えました。
ある一人の神は言いました。
「世間には大士というものがある、人人をめぐむために種種な修行をするが、自分のためを計っては何事もなさぬ人である。
かような人は、迷の上に過咎を見るので、たとえ地に財宝が満ちて居っても、唾を見るのと等しく、少しも貪着を起こさない。
肉親の妻子や又は神の世の栄華をすらも望まない、唯一時も早くこよなき道を成し遂げて、一切の人人を饒(めぐ)もうとのみ望んで居るということである。
彼は恐らく、こういう人ではあるまいか」。
すると帝釈天が言いました。
「この人が本当にそのような深い志をもった菩薩なのか試してみよう」と。
こういって、帝釈天は神の座から消えて雪山に現れました。
そして、世にも恐ろしい鬼に姿をかえて、そしていとも朗かに歌いました。
これが、あの偈の前半でした。
「諸行無常(しょぎょうむじょう)、是生滅法(ぜしょうめっぽう)、」というのです。
「作られたものはすべて無常である。生じては滅していくことを本性とする」という意味です。
この半偈を聞いたお釈迦様は、渇いた者が水を得たように喜びました。
「尊い歌である、正しくこの世の真諦を伝えた歌である、これこそ大乗の法でなくしてどうしよう」と思って、躍る心をおさえて、座を立って四方を見まわしたのでした。
いったい、誰がこの尊い偈を歌ったのであろうと見渡しましたが、誰も見当たりません。
ただ一つ、眼に映ったのは、世にも恐ろしい形状をした一人の鬼でありました。
お釈迦様は鬼に尋ねて見ようと決心しました。
「あなたは何処でこの尊い半偈を得られたか」と尋ねました。
鬼は、「いや、そのことなら尋ねてくれるな、私は、この幾日もの間何にも食べていない、あちこちと食を捜しているが、どうしても得られない、そのために心が乱れて、思わず唱えたのがあの半偈である、ことさら、心あって唱えた訳ではない」と言いました。
お釈迦様は「そう云わないで、どうか教えて頂きたい、私は必ず生涯あなたの弟子となりましょう。あなたの今の偈文は、まことに尊いものであるが、言葉も半分で、意味も完全になっていない、。財の施は尽きることもあるが、法の施には尽きることがないとも云う、どうぞ教えて頂きたい」と懇願します。
鬼は「あなたはただ自分のことばかり考えていて、この私のことは少しも念ってくれぬでないか、私は今、飢えきって居る、どうして説いてなど居られるものでない」と言うばかりです。
「では、あなたの食は何でありますか」。
「問わぬがよい、若し聞いたら、誰でも驚くであろうから」。
「ここには誰も居ない、私だけである、何も畏れはしないから、どうぞあなたの食物を云って下さい」。
「それならば云おう、私の食は人間の暖い肉、私の飲物は人間の熱い血、それが、私の食物である」。
「それならば、どうぞ、後の半偈を説いて下さい、やがては死ぬるこの肉体のこと故私には少しの用もありません、死んで虎狼や梟に噉べられるよりは、今あなたに供養して、尊い御法にかえることが出来れば、まことに私の心からの望であります、私はいま、この朽ちはつる肉体を捨てて、永久にかわらぬ堅い法の身が得たいと願うております」。
「いや、さようなことを言っても、誰も信ずることは出来まい」。
「それは愚しい言葉と思います、私はすべての神神や仏方に誓って、その証を立てて頂きましょう」。
「それほどに云うならば、後の半偈を説くであろう」。
こうして鬼はようように肯うたのでした。
お釈迦様は衣を脱いで、鬼のために法座として敷き、「ではどうぞ、後の半偈を説いて下さい」と恭しく、跪いて言いました。
すると鬼は、
「生滅滅已(しょうめつめつい)、寂滅為楽(じゃくめついらく)」と唱えました。
「生滅するものがなくなり、静まっていることが安らぎである」という意味です。
そう説いて、「さあ、菩薩よ、私はこれで全部の偈文を説いた、汝の願は満たされたことであろう、若し人人に恵もうというのであるなら、私にその身を施してもらいたい」と云う。
お釈迦様はその時、深くその偈文の義を味わい、それからその偈文を、石や壁や、或いは樹や道の所所に書きつけ、さて再び衣を着けて高い樹に上りました。
そして、樹から身を躍らせた途端、まだ身が地の上に至らぬ前に、かの鬼は神の姿に復って、お釈迦様の身を空で受け取り、地の上に静かに置いたのでした。
そして、諸の神神と一しょに足もとにひれ伏して讃め称え、そして、
「尊い志である、これこそ真の菩薩である、能く量りない多くの人人をお恵み下された、どうぞ、私の罪を許して下さい、そして、もしこよない道を成し遂げたもうた暁は、必ずこの私をも、お救い下さい」といって、足に礼をなして立ち去ったという話です。
この話も釈宗演老師が、タイ国に行こうとして船で蚊の大軍に襲われて思い起こされたものの一つなのです。
いろはうたの元になる話でもあります。
横田南嶺