真っ暗闇を経てこそ
今回も短い滞在でありましたが、お昼前に自分の授業を行い、午後は禅文化研究所主催の講演会がありましたので、それも拝聴してきました。
芳澤勝弘先生のご講演でありました。
ただいま花園大学の歴史博物館では、大分県の中津にある自性寺の特別展が開催されています。
それに合わせて、白隠禅師と堤州和尚と題して講演をなされたのでした。
堤州和尚は白隠禅師について修行されて、白隠門下では四天王と言われたほどの方であります。
まず午前中の授業では、臨済録に学ぶの第二回で、今回は臨済禅師という人はどんな人であったのか、限られた資料から考察してみました。
まず臨済禅師は、生まれたところはだいたい分っていますものの、いつ生まれたのかはっきりしていません。
この時代の祖師方では、高名な方になると、生まれた場所や年も、どこで出家して、どの寺で修行したなどの経歴もはっきりしているのですが、臨済禅師には、それらがほとんど分らないのです。
それでも限られた資料からその人物像を探ってみたのでした。
よく一般には、臨済禅師というと唐の時代の禅僧と言いますが、まずこの唐の時代というのが、七世紀から十世紀の初めまで、実に三百年近く続いた王朝なので、かなりの幅があるものです。
そこで、よく漢詩を学ぶときにつかう、初唐、盛唐、中唐、晩唐という区分を用いて説明してみました。
初唐というと、武徳初年から玄宗即位の前までで、六一八年から七〇九年まで、詩人では王勃、楊炯(ようけい)、盧照鄰(ろしょうりん)、駱賓王(らくひんのう)という方が活躍されました。
禅僧でいうと、六祖慧能(六三八~七一三)禅師が活躍された時代であります。
それから、盛唐となると、七一三年から七六五年までで、李白・杜甫・王維・孟浩然・高適(こうせき)・岑参(しんじん)・王昌齢という錚々たる詩人が活躍され、玄宗皇帝の時代でもあり、文化の花開いた時であります。
この時代の禅僧というと、南嶽懐譲禅師であります。(六七七~七四四)
中唐というと、七六六年から八三五年までをいい、詩人では韋応物、韓愈、柳宗元、白居易らが活躍された時であります。
この時代の禅僧は馬祖道一禅師(七〇九~七八八)をはじめ、薬山禅師(七五一~八三四)、百丈慧海禅師(七四九~八一四)、潙山霊祐(七七一~八三五)禅師ら、錚々たる禅僧が活躍された時でもあります。
晩唐は、八三六年から九〇六年まで、詩人では、杜牧や李商隠の時代です。
禅僧では、趙州従諗禅師(七七八~八九七)、臨済義玄禅師(?~八六六)、徳山宣鑑禅師(七八二~八六五)、仰山恵寂禅師(八〇七~八八三)などの活躍された時代であります。
里道德雄先生が、その著『臨済録』で、
「臨済和尚の活動した時代は、ちょうど唐が崩壊しようとしているときでした。
そして仏教的には、経典を中心とする教学が衰微し、経典に拠らず寺院にも拠らず、仏性説にのっとり自らの心をしっかりと見据えて道を求めようとする禅が、逆に展開していこうとする時期に相当していることに注意しなければなりません。」
と説かれているような時代の方なのであります。
とりわけ西暦八四五年の武宗の破仏は大きな影響を与えています。
武宗による仏教の大弾圧がありました。
多くの寺が壊されて、仏像も破壊され、経典も燃やされ、僧侶の還俗させられたのでした。
この破仏の前の時代には、黄檗禅師のもとには、七百もの僧が集まっていたのでした。
潙山禅師にところにも千人を越える禅僧が居たのでした。
それがこの破仏によって、仏教界は大きく変わりました。
趙州和尚が破仏に遭ったのが六十七歳のときで、語録には「岨崍山に難を避け、木の実を食い、草で作った衣を着ながら、僧としての威儀を変えなかった。」と書かれています。
潙山禅師などは破仏までは多くのお弟子を抱えていましたが、七十四歳という晩年に破仏にあい、還俗を迫られて、俗人の帽子と衣装を身につけていたといいます。
巌頭和尚が、船の渡し守になっていたことはよく知られています。
それでも禅僧たちは平気でいたのでした。
小川隆先生が、禅宗の特徴として伝灯の系譜を重んじることをあげられていますが、それは、教祖と聖典がないという特徴でもあるとも仰せになっているように、特別にあがめるものを持ちませんので、寺が壊されようと、仏像が破壊されようと、禅はこの身ひとつがあれば、だいじょうぶなのです。
そんな時代に活躍されたのが、臨済禅師なのです。
柳田聖山先生が『臨済ノート』で、
「臨済院は当時、この地方の実力者であった王常侍という人が、義玄のために建立したものである。
それは、かつて唐朝の国立寺院であった竜興寺とか開元寺とかいう大寺院とは異なって、あくまで一つの地方寺院として、私的な性格をもっていたと思われる。
したがって、この禅院にいたことによって、臨済とよばれる義玄もまた、国家の保護や既成教団の伝統、といったような背景なしに、あくまで一人の自由な仏教者として、独自の宗教的信念を鼓吹したのであり、むしろそうすることによって、人々に偉大な感化をあたえたのである。
いうならば、かれは当時の仏教における自由人であり、一匹狼であった。」
と仰っている言葉を紹介したのでした。
そんな時代に、「わしも以前、まだ目が開けなかった時には、まっ暗闇であった」という黒漫漫地の時を過ごし、「光陰をむだに過ごしてはいけないと思うと、気はあせり心は落ちつかず、諸方に駆けまわって道を求めた」のでした。
それから黄檗禅師と大愚和尚のもとで大悟したことを話させてもらいました。
臨済禅師という方は、黒漫漫地という真っ暗闇の時代から体究錬磨を経て、無事の人になったのだと解説しました。
真っ暗な中を苦しまれたからこそ、無事の人になったのです。
先行きの見えない時代で、真っ暗な中をくぐり抜けた方だと思うと、今の時代に学ぶ意義も感じられるように思うと伝えたのでした。
横田南嶺