隠者の風光
『碧巌録』にも「蓮華峰庵主」や「桐峰庵主」という方が出てきます。
庵主というからには、大きな寺に住せずに過ごされた方であります。
しかし、すぐれた境涯をなさっていた禅僧が多いのです。
浄心庵主の禅超という方もその一人だと思います。
禅超という方のことは、今北洪川老師の『蒼龍廣録』を読んでいて知りました。
洪川老師は、この方のことを「禅超尊者」と敬称されています。
尊者というと、羅漢のことを呼ぶのに用いる尊称です。
最大限の敬意をもって呼んでいるのです。
この浄心庵主のことを思い出したのも、先日の夏期講座で小川隆先生のご講義を拝聴したからでした。
兜率従悦禅師の話であります。
兜率従悦禅師のことを『禅学大辞典』で調べてみると、
「臨済宗黄竜派。
虔州(江西省)の人。
俗姓は熊氏。
一五歳、普円院の徳崇上人に依って出家、一六歳で受具する。
初め雲蓋守智の指示を受け、ついで、真浄克文に再参し、鹿苑寺に出世した。
たまたま石霜楚円に久参得法した清素に相見し、その提撕によって開発する所があり、清素の印可を受けたが、清素の戒めによって、ついに、真浄に嗣いで隆興府の兜率寺に住し、大法を宣揚した。
丞相張商英(無尽居士)は初め東林常聡に参じたが、さらに従悦の指導を受け得法の弟子となった。
元祐六年一一月三日示寂。世寿四八。
後、徽宗の宣和三年に商英が奏請して真寂禅師と諡せられた。」
と書かれています。
私どもの修行では、『無門関』の第四十七則、兜率三関で知られています。
「兜率悦和尚、三関を設けて学者に問う、
「撥草参玄は只だ見性を図る。即今上人の性、甚れの処にか在る」
「自性を識得すれば方に生死を脱す。眼光落つる時、作麼生か脱せん」
「生死を脱得すれば便ち去処を知る。四大分離して甚れの処に向ってか去る」
という三つの問題です。
訳しますと、
「諸方を行脚し眼の開いた名師に参じて宗旨を究める目的は只いかにして見性するかにある。即今あなたの本性はどこに在るか」
「自性を明らかにすれば、直ちに生死を脱することができる。ではあなたが死ぬ時、どのように生死を脱するのか」
「生死を超越できれば死んでどこに行くのかもはっきりする。死んだ後にあなたは何処に向って去るのか」
という三つの問いであります。
どれも難問で、修行僧は、苦しめられる問題です。
この従悦禅師が、修行時代に清素首座について大いに啓発されて、印可まで受けていたと『禅学大辞典』にも書かれています。
しかし、清素首座は、師である慈明楚圓禅師から人の指導をしてはならないと戒められて、生涯世に出なかったのでした。
洪川老師が、語録の中で、この清素首座のことを慈明禅師に十三年も師事されながら、八十歳で鹿苑に寓していたと書かれています。
寓ですから、住職ではなく仮に身を寄せていたのです。
そんな清素首座になぞらえるような方が、禅超尊者だったと書かれているのです。
この記述から、従悦禅師が、世の中から隠れていた清素首座から大いに啓発されたように、洪川老師も備前曹源寺にいらっしゃった頃にこの庵主から教えを受けていたのではと察せられます。
ではこの浄心庵主禅超尊者とはどのような禅僧なのか、『近古禅林叢談』には、次のように記されています。
意訳させてもらいます。
超首座として記載されています。
超首座は伊予国の人であり、大洲の曹渓院で出家して、隠山禅師や、行應禅師などについて参禅され、円覚寺の誠拙禅師から悟りを認められていたのでした。
世寿七十余りで、岡山の浄心庵において示寂しています。
超首座は長らく円覚寺の誠拙禅師について修行して、大に省発する所がありました。
しかし、誠拙禅師は、その悟りを認めながらもつらつらその人相が貧相であるのをみると、大きな寺に住して多くの人を指導してならないと告げたのでした。
禅超首座はこの言葉を受けとめて、生涯大きなお寺に入ることはありませんでした。
太元禅師が岡山の曹源寺に住すると、禅超首座はそこに行って、太元禅師の教化を助けました。
年齢が五十余りにもなって、岡山の浄心庵に住しました。
この庵は、曹源寺から一里ばかりの処にありました。
太元禅師が講座をなさる日には、どんなに雨風が強くても必ず曹源寺に行って拝聴していました。
この禅超首座はいつも自らを厳しく戒めていて、粗末な食事をして、質素な着物を着ていました。
それでいて人をもてなすときには、実に寛大に振る舞っていたのでした。
この禅超首座に接すると、あたたかい趣があってまるで春風に包まれるようでした。
そこで曹源寺に掛搭して後に名をなした禅僧たちの多くはこの禅超首座に教えを受けたのでした。
禅超首座は、とても山水を好んで、気候のよいおりには必ず握り飯をもって、海浜に遊び、楽しんで帰っていました。
相國寺の獨園禅師が、この禅超首座を浄心庵に訪ねましたが、首座は不在でした。
そこで獨園禅師は、曹源寺の棲悟軒に儀山禅師を訪ね、晩ご飯を一緒に食べようとしました。
そこに禅超首座が帰ってきて、獨園禅師に言いました。
「私は今朝海辺まで遊びに行って、たまたま禅師がお越しになっていると聞いて、あわてて帰ってきました」と。
ところがしばらくすると、この禅超首座の姿が見えなくなりました。
みんなはどこに行ったのかと探しました。
しばらくすると、禅超首座は、裳裾をからげて手に豆乳を提げて帰ってきました。
儀山禅師は豆乳がお好きだったのです。
そこで、禅超首座は、村のなかの豆腐屋に行ったのですが、どこも閉まっていて、遠く一里ばかり探してようやく豆乳を買ってきたというのです。
なんとも親切な方であります。
なんのはからいもなくただ無心に豆乳を買いに出かけて、一里も探してようやく帰ってきたのです。
無心のはたらきであります。
こういう方に出会って洪川老師も大いに影響を受けたのだと察します。
こんな話は禅の正史には載らないものです。
しかし、こういう隠れた方がいらっしゃって、後に大成なされる方が育ってゆかれたのです。
世に出る方もあれば、そのかげに隠れた方もいらっしゃって、それぞれのはたらきがあるのであります。
この頃小川先生は、大慧禅師の宗門武庫を研究されて、私たちにも教えて下さっていますが、おかげで禅の正史には出ないいろんな逸話を学ぶことができます。
そんな隠れた禅僧がいてこそ、禅の命脈は保たれてきたと思うのであります。
横田南嶺