至道無難
この僧璨禅師に『信心銘』という書物が残されています。
その冒頭の言葉が、「至道無難、唯揀択を嫌う。但だ憎愛莫ければ洞然として明白なり」であります。
「至道」とは至極の大道をいいます。
究極の道であります。
最もすぐれた道ということであります。
その究極の道というものは、何も難しいものではないというのであります。
唯だ揀択を嫌うのだというのです。
揀は、呉音ではケンであり、「選ぶ」という意味です
択は呉音ではジャクで、これも「選ぶ」という意味であります。
「揀択」は、「えりごのみ」であって、「自分の好みに合ったものだけをえらびとること」を言います。
あっちがいい、あちらにしたい、こっちは嫌だと考えたらもう至道ではないのです。
人間のはからい、分別をつけてはならないというところです。
古い注釈書には、「迷悟凡聖を揀択し、自ら異見の岐路に迷う」と註釈されています。
仏道を修行するのに迷いを捨てて悟りを目指そうと申しますが、迷いはいやだ、悟りがいいというのもえり好みであります。
或いは静かなところで坐禅したい、騒がしいところは嫌だというのもえり好みであります。
そこで、「但だ憎愛莫ければ、洞然として明白なり」です。
「憎愛」という、つまり憎いと可愛いという思いがなければ、はっきりとあきらかになるのであります。
何があきらかになるというと、至道です。
真実の道があきらかになるのであります。
鈴木大拙先生は、『禅の思想』のなかで、「至道無難、唯揀択を嫌う」について次のように解説されています。
「シナでは、最高の真理又は無上絶対の実在を大道又は至道と云った。
僧璨に従へば此至道は何も六箇敷いものでない、唯嫌ふところとは、彼此と云って択びとりをすることである。
即ち分別計較心をはたらかすことである。このはたらきから憎愛の念が出て、心そのものが暈ってくる。
心が有心の心になると、もともと洞然として何等のさはりものもなく明白をきわめたものが、見えなくなる。
分別を去れ、憎愛を抱くな、すると本来の明白性が自ら現はれる。」
というのであります。
さてこの「至道無難」という言葉を名前にした禅僧がいます。
江戸期の禅僧至道無難禅師であります。
至道無難禅師は、慶長八年西暦一六〇三年に美濃の国(岐阜県)の関ヶ原に生れました。
延宝四年(一六七六) 江戸の小石川の至道庵で亡くなっています。
享年七十四です。
禅師は木曾街道(今は東海道)の宿場であつた関ヶ原の三輪家の長子として生れました。
父は本陣問屋の主人でありました。
禅師は長男でしたから、父祖の業を継いで、大きな旅宿の主人となったのでした。
その頃、やはり美濃国の人である愚堂国師という方が、美濃で住職をし、京都の妙心寺にも出ておられました。
そこで、京都から江戸への途次、関ヶ原を通過するのを知り、これを家に請じて教えを受けるようになりました。
愚堂国師は、至道無難禅師に「本来無一物」の公案を授け、禅師はこの一句の意味を考えることに苦心惨憺、ほとんど寝食を忘れるほどでした。
やがて、この無一物の公案を透過して「劫外」という法号を与えられたのでした。
更に四七歳のときに「至道無難」の公案を与えられて透過し、この「至道無難」を法号として授けられました。
古来、禅語としては「しどうぶなん」と読み、名前としては「しどうむなん」と読んでいます。
無難禅師五十二歳のときに、愚堂国師は京都から江戸に赴く際、例によって関ヶ原の本陣に宿ることにしました。
たまたま無難禅師は不在でしたが、家の者たちは、愚堂国師に、この頃主人は酒に溺れて乱行が多く、皆がほとんど愛想を尽かして、雇人も次々に離れてゆく有様ですと訴えました。
「どうぞ禅師様、お慈悲でございます。 主人にお灸を据えて下さい」と願ったのです。
そこで愚堂国師はこれを承諾し、酒樽を置いて禅師の帰りを待ちました。
夜が更けて、主が帰ってきました。
愚堂国師がその様子を見ていると、無難禅師は門を乗越えながら、家の者たちを罵り、怒鳴り散らしているのです。
そこで愚堂国師は出迎へ、「御主人、お元気かな。長くお待ちして居ましたぞ」と言いました。
無難禅師は驚いて、「禅師様、どうしてこんなに突然お出になりました」と上座に請じて平伏しました。
愚堂国師は家の者らに宴の用意を頼み、盃になみなみと酒を注いで無難禅師に与えました。
ここで国師は顔色を正して、「皆の話を聞けば、近頃汝は酒の度を過ごし、皆に迷惑をかけているそうではないか。今夜はとことんまで汝を酔わせる。
もし汝に志が有るならば、ここで最後の酔を思うさま尽して、今後はきつぱりと酒を断て」と言いました。
無難禅師も「それこそ私の願うところでございます」と答えますと、愚堂国師はからからと笑い、それから夜を徹して酒を飲み、いつしか朝になりました。
愚堂国師が出発の駕籠に乗ると、無難禅師はその脇について数里見送りをしました。
愚堂国師が、「もうお帰り、家の者が心配する」と促しても、無難禅師は、「私には後嗣がおりますから、家に帰る必要はもうございません」と言ってきかず、 旅の仕度も何一つしてないのに、江戸の正燈寺まで来てしまったのです。
関ヶ原の自宅で酒乱となっていたのは、出家の志を固めて、家の者たちに愛想を尽きさせ、家を捨ても皆が諦めるやうにするための策略であったのではという説もあります。
そうして江戸の正燈寺に着くと、無難禅師は即日髪を切り、愚堂国師のもとで出家したのでした。
無難禅師は江戸の麻布にあった東北庵に住んで、自ら至道庵主と称し修行を続けたのです。
この無難禅師を訪ねてきたのが、後の正受老人でありました。
日本の禅は、この愚堂国師から至道無難禅師、そして正受老人から白隠禅師へと伝灯の系譜が続いているのです。
横田南嶺