己の過ちを指摘してくれることの大切さ – 奘堂さんを訪ねて –
梅雨の季節を迎えます。
佐々木閑先生との対談で、現代人を苦しませるのは所有欲だというご指摘で、この所有欲を如何に減らすかが、これからの戒のあり方を考える大事なことだと教えていただきました。
欲望から離れるということが仏教の大切な修行なのです。
しかしながら、仏教では悟りを目指すという欲もあります。
欲を捨てると言いながらも、悟りへの欲はどうなるのかという問題です。
この点について佐々木先生は、他の諸々の欲望に対して悟りへの欲というのは別格なのだとお話くださいました。
その他諸々の欲望というのは、自分の欲求するものを実現しようと目指すものです。
その欲というのは人それぞれ違います。
お金が欲しい、有名になりたい、注目されたい、おいしいものを食べたい、いろいろな欲があります。
欲は無限にあるといってもいいでしょう。
しかし、悟りへの欲というのは、自分が欲望しないことを目指すという一本の道なのだというのです。
目的はひとつしかないのです。
もう何も欲しがらないという自分が最終の目指すところなのです。
それを目指して進んでゆくのです。
そして佐々木先生は、最後には悟りを目指すという欲望も消えた自分になると解説してくださいました。
ですから、そのほか諸々の欲望とは違うというのです。
世の中にあるいろいろの欲望は、お金が欲しいとか様々あるのですが、そういう欲望は否定して、欲しがらない自分を目指すというのです。
この欲しがらない自分を目指すという点は、仏教独自のものです。
いろんな宗教の中には、欲望の実現を掲げているものも多くあります。
この惜しがらない自分を目指すというところは、現代においても大きな意味があり、これからの時代に必要な教えだと仰っていました。
そしてそれこそが真の安楽の道だということです。
悟りを目指しながらも究極は悟りへの執着からも離れるのです。
悟りを目指してきた自分も本当の姿ではないと、振り返って気がつくというのです。
この悟りを目指してきたことも忘れるというところはとても大事なことです。
禅の教えにも通じるのです。
駒澤大学の小川隆先生が、禅ではいかにして悟るかということも説かれているけれども、それは禅の語録にとかれている半分なのであり、大事なのは、悟ったあとにいかに悟りを忘れ去って普通に生きるかという問題を追及していることだというのと通じるところです。
もっとも悟りを目指して求めるということを通過してきてこないといけないと佐々木先生は仰せになっていました。
悟りを求めるということを通過してこないと、悟りへの執着は消えないのです。
これも臨済禅師は求める心がやんだ状態が無事であり、無事の人こそ仏であると説かれましたが、はじめから求めないのではないのです。
臨済禅師ご自身が、「体究錬磨して一朝自ら省す」と語録に説かれているように、求めて求めぬいてこそ、ある時もう求めることはないと気がつくのです。
そこで悟りへの執着も離れて無事の人になるのです。
それでも自分中心の物の見方は消えることはないのです。
自我というのは気がつかないうちに出てしまっています。
やはり修行は命ある限り続いてゆくものです。
自我が強くなっていることは、自分自身では気がつかないものもあるので、第三者に指摘してもらうことも必要だというのです。
佐々木先生は動画を撮影しても、必ず奥様に点検してもらうと仰っていました。
自分が自我にとらわれていることは自分ではなかなか見えないのです。
それには、絶えず自分は誤っているという自覚が必要なのです。
そして時に師匠という方に指摘してもらい、或いは第三者に指摘してもらうことも必要なのです。
自分の過ちを指摘してくれるというのは有り難いことです。
大阪の天正寺の佐々木奘堂さんには、私も随分いろいろとお世話になってきました。
手厳しく私の坐禅の姿勢がなっていないとご指摘いただいたものでした。
これはとても有り難いことです。
まさしく自分の欠点を指摘してくれる人はみな、自分にとっての先生なのです。
先日奘堂さんのお寺を訪ねてきました。
奘堂さんのお寺にはいわゆる檀家というものがありません。
この度、寺の建物の一部を大規模に改修して一般の方々が宿泊して坐禅ができるように整備されていました。
坐禅に来る方々によって、成り立っているお寺なのであります。
本堂も実に坐禅堂そのものなのでした。
本堂には奘堂さんに頼まれた私が揮毫した「不断坐禅」と「但行禮拜」の書が掲げられていました。
お伺いしてお茶をいただいた後は、専ら坐禅で腰を立てるご指導をいただきました。
二時間ばかり熱心に教えてくださったのでした。
いつも強調されている坐るということは、足の付け根で立つということに他ならないので、その方法を丁寧に教えてくれたのでした。
いつも教わることは有り難いことです。
また何よりも坐禅、腰を立てるということを追究し続けている奘堂さんの姿勢に学ぶのであります。
こうして学び続けることが、自我中心の執着から離れる道なのだと改めて思ったのでした。
横田南嶺