御目の雫
岩波書店の『仏教辞典』には、聖明王の説明として、
「6世紀の初め頃、百済に武寧王(ぶねいおう)が立ち、高句麗(こうくり)に攻められ漢城を捨てて公州に移ったが、やがて百済を立て直し、倭と修好した。
武寧王の子聖明王は父王が523年に没した後、百済王となり父王の志をつぎ日本と修好し、仏像・経論を大和(やまと)の朝廷に献じた。
これが我が国への<仏教公伝>で、その年は538年であるが、552年(欽明13)とする説もある。」
と書かれています。
「日本では排仏派の物部(もののべ)氏の滅亡につづく聖徳太子の推古朝に蘇我(そが)氏の強力な支持もあって、仏教は私的な信仰から国教としての様相を呈し、中国に学んだ学僧たちのいる寺院は、当時の学芸・教学の中心となった」
というのが実情です。
かの四天王寺は、物部守屋と蘇我馬子の間の争いの際、聖徳太子の戦勝祈願により建てられた寺であります。
ここにある「国教としての様相を呈する」というところが重要であります。
六世紀に日本は、国の教えとして仏教を導入したのでした。
この日本の仏教に大きな貢献をされたのが、聖徳太子(574〜662)でありました。
聖徳太子の十七条憲法に「篤く三宝を敬え」と書かれていますが、三宝とは、「仏法僧」を言います。
まだその頃は、仏像と経典を取り入れただけでしたので、まだ仏法僧という三宝は揃っていない状態でした。
僧というのは、『広辞苑』にも
梵語サンガの音写「僧伽(そうぎゃ)」の略。和合衆・衆と訳す
② 仏教の出家修行者の集団。
② ①に属する修行者。特に中国・日本では、仏門に入って仏道修行する各個人の称。沙門。出家。比丘。法師。僧侶。」
と解説されています。
一番にありますように、出家修行者の集団のことを言います。
また『仏教辞典』には、
「仏・法とともに、仏教の根幹である三宝(さんぼう)を構成する要素の一つで、僧伽(そうぎゃ)とともにサンガの代表的訳語。」
と解説されています。
日本各地に多くの寺院が建立されて、そこでは様々な仏教儀礼も執り行われていましたが、正式なサンガというものは、長らく導入されていませんでした。
なにぶんにも、正式な僧となるには、三人の師匠と七人の立ち会いの僧がいります。
十人のお坊さんに儀式を務めてもらわないと、正式な僧とはなれないのです。
このことをかなえたのは、鑑真和上でした。
『仏教辞典』には、
「当時、日本では、平城遷都後、仏教が発展するに従い、官僧が増加したが、それにともない、規律の乱れがめだつようになった。」
という問題も出ていたと書かれています。
それから「また、中国へ渡る僧も増えていったが、中国では沙弥(しゃみ)の扱いを受けた。そうしたことを背景として、中国方式の授戒の導入がはかられ、733年(天平5)に栄叡(ようえい)・普照(ふしょう)らが中国から戒師を招請するために派遣された。」
沙弥というのは、見習いの僧なのです。
日本のお坊さんは、当時まだ正式に出家したと認めてもらえなかったのでした。
十人のお坊さんから授戒という儀式を行ってもらわないと、正式な僧とは認めてもらえないのです。
そこで、
「栄叡・普照らは、742年(天平14)揚州大明寺の鑑真を訪れ、来日を要請した。
鑑真は、以後、五度の渡日を企てたが、妨害や難破により失敗し、鑑真自身も失明した。
そうした失敗を乗り越え、753年(天平勝宝5)12月に渡日に成功した。」
のであります。
そして
「754年(天平勝宝6)には奈良に入り、4月には東大寺大仏殿の前に仮設の戒壇(かいだん)を築いて聖武上皇・光明太后らに菩薩戒を授けた。
さらに、賢けいら80余人の僧に具足戒を授けた。ここに、戒壇で三師七証(さんししちしょう)方式により『四分律(しぶんりつ)』の250戒を授ける国家的授戒制が始まった。」
のでした。
日本に仏法僧の三宝がそろい、正式に仏教国になったのは、この七五四年なのです。
鑑真和上にとっては、このように正式に受戒した僧を育てて、日本にサンガを作ることを目指していたと思われます。
しかし、鑑真和上の願いはかなえられませんでした。
朝廷にとっては、僧というのは国家の権力機構の一員でありました。
僧侶は、国家の安泰を祈り、大陸との文化交流を担う役割を期待されていたのです。
僧侶が自分たちだけでサンガをつくり、律蔵に基づいた独自の組織を持つことは、認められるものではありませんでした。
鑑真和上は、苦労して来日されましたが、失意のうちにお亡くなりになったのではと察します。
しかも、新しく僧侶を作るにも、僧侶の側に新たな僧侶を認定する権利はありませんでした。
その認定権は国家が持っていました。
比叡山に大乗の戒壇が朝廷から認められたのは、伝教大師がお亡くなりになった後だというのは、まさしく国の管理下にあったことをよく物語っています。
日本の仏教は、国家によって運営され、管理されたものから始まったのです。
私の部屋には鑑真和上の写真を飾っています。
唐招提寺にお参りして求めたものです。
若葉して御目の雫ぬぐはばや
という芭蕉の句を思い出します。
この涙は、日本に渡って来られた苦労でもありましょうし、途中で鑑真和上を招こうとした栄叡が亡くなったこともありましょうし、そしてまた自分の願いが果たせなかった涙もあるのかなと想像しています。
横田南嶺