「般若」とは
仏道を学ぶということは、般若を学ぶことにほかならないのです。
「般若」とは何か、まず『広辞苑』を調べると、
「(梵語prajñāの俗語形paññāの音写語。智慧・慧と訳す)
①〔仏〕㋐真理を認識する知力。最高の智慧。三学・六波羅蜜の一つ。
㋑大般若経の略。
②能面。鬼女の面。角があり、妬みや苦しみ、怒りをたたえる。面打ち般若坊が創作したと伝える。」
という解説があります。
たしかにお能の面にも「般若」がございますが、これは梵語のプラジュニャーがもとであり、その俗語形のパンニャーが音写されたものです。
①の㋐にある真理を認識する力であります。
岩波書店の『仏教辞典』には、
パンニャーの音写という説明のあとに、
まず「直観的・直証的な<智慧>をいう」と書かれています。
直観的というところがまず大事であります。
そして「般若は初期仏教以来、無常・苦・無我などの諸法の道理を見抜く智慧として、また三学の一つとして重視された。」
と書かれています。
そのように仏教では古くから用いられていた言葉です。
お釈迦様が大切に説かれた「無常、苦、無我」という真理を見抜く智慧であります。
そして更に
「大乗仏教では、菩薩の修行徳目である六波羅蜜の締め括りに<般若波羅蜜>が置かれている。」
と説かれています。
私は、大学で金剛般若経を専門に勉強してきましたので、般若経については格別の思いがあります。
「般若」について語るだけで、一冊の本になりそうだと思うくらいです。
そんなことを考えていたら、「般若」という題の一冊の本が出版されていました。
工学博士の森政弘先生が書かれた『般若』という本であります。
佼成出版社から出されています。
オビの表には、「「ロボコン」の創始者が現代に放つメッセージ 科学者が捉えた仏教思想の真髄が、いま明かされるー。」と書かれています。
オビの裏には、「「識」のみの世界から、般若、直観の世界へも入られて、自己の制御も身に付けられ、物からの、声なき声が聞こえるように成られることを、お祈りしてやみません」
と書かれています。
「識」のみの世界と書かれているように、森先生は、「般若」という智慧と、「識」という知恵とに分けて説かれています。
「識」は『仏教辞典』には、「区別して知ることを〈識〉という」と書かれています。
物事を対象として理解することであります。
森先生は「「識」で表されたものでは、個物の特徴は失われています。」
と書かれていますように、概念化してしまうのです。
頭の中で認識してしまうのです。
森先生は
「即ち目で見ているもの(事実)は、般若で認識しますが、これに概念を適用して判断すれば、それは「識」による理解となるのです。
そして 「識」による理解は、対象を概念化するので、事実から遊離します。」
と説かれていますが、
「識」は概念であり、静止的であります。
しかし、実際の世界は絶えず移り変わっているのです。
さらに、諸法無我という真理からみると、「空間的には、ひとつの存在は限りなく他のすべての存在とつながっていますので、対象を概念化する「識」では、表現することはできません。」
ということになってしまいます。
「また、「識」は概念を通してから働くので、そのスピードは遅くなります。これに対し、「般若」は概念を通さず、直観的に働くので、軽快であり、そのスピードは速いのです。」
とも説かれています。
空を知るのは、この「般若」の方であります。
「空」ということについて興味深い話がありました。
引用させてもらいます。
「説教強盗」の話です。
「戸締りのよくない家に押し入っては、「おまえの所はこうこうこういう風に戸締りがルーズだ。 だからおれが入ってくることができたのだ」と説教をしてから、物を盗んで引き揚げるという、人を食ったけしからぬ奴でした。それはやがて捕まって監獄にぶち込まれましたが、服役中に心を入れ換え、出獄後、他を以ては代えがたい、彼に最適の善なる職業に就いたのでした。
その職業は、なんと、防犯協会顧問でした。
彼は一軒一軒、自分がやった手口を説明してまわり、戸締りを指導して防犯の実を上げたということです。」
という話です。
森先生は、
「悪人は常に悪人ではありません。
俗世間では一度悪人のレッテルを貼られてしまうと、その人は永久に悪人とされてしまうのですが、真実はそうではありません。存在は空ですから、固定的でなく流動的なのです。悪人は善人に変りえます。」
と説かれています。
悪人という実体はないのです。
いろいろの条件が重なって、今悪人となっているのに過ぎないのです。
実体が無いということを「空」というのです。
「空」であるからこそ、悪人が善人に転じることができるのです。
森先生は、
「注目すべきことは、彼の悪人から善人への逆転に際して、変えたものについてです。
いったい彼は何を変えたのでしょうか。
それは戸締りについての豊富な知識ではありません。
戸締りの知識はそのまま保持しながら、変えたのはそれを使う方向だったのです。」
と説かれています。
私たちが、実際に生きて活動しているのは「識」の世界です。
生まれてこの方、目で物を見て、耳で聞いて、舌で味わって、認識して覚えてきたものを集めています。
これが「識」の世界です。
「識」の世界には、比較がつきもので、競争があり、勝ち負けがあり、驕りや憎しみがつきまといます。
「空」の世界には、そんな比較がありません。
「識」の一切が空じられた世界です。
争いも勝ち負けもないのが「空」の世界です。
「空」の世界を自覚するのが、「般若」です。
「般若」の智慧は、それまで学んで得ることができた「識」を生かすこともできるのです。
横田南嶺