雨安居はじまる
「〔仏〕(梵語では、雨・雨期の意)
僧が一定期間遊行に出ないで、一カ所で修行すること。
普通、陰暦4月16日に始まり7月15日に終わる。
雨安居・夏安居・夏行・夏籠・夏断ちなどという。
禅宗では冬にも安居がある。」
と解説されています。
岩波書店の『仏教辞典』には、
「インドでは春から夏にかけて約3カ月続く雨季の間は、外出が不便であり、またこの期間外出すると草木の若芽を踏んだり、昆虫類を殺傷することが多いので、この制度が始まったとされている。」
と書かれています。
もとは、芽吹く草を踏んだり、動き始めた虫を踏んでしまったりすることがないように、生き物のいのちを害することがないようにという慈悲の心がもとになっています。
円覚寺の修行道場では、四月二十日に雨安居のはじまりを迎えます。
そこで摂心を始めます。
「摂心」という言葉も『広辞苑』にございます。
「①心を集中させ統一すること。
②禅宗で、一定期間、昼夜を問わず坐禅に専念すること。接心会。」
という意味であります。
岩波の『仏教辞典』では、
「接心」とは「<摂心>とも書く。
心を摂(おさ)めて、散乱させないこと。
禅門では、<接心会(せっしんえ)>の略称として、一定期間、万事をなげうって、ひたすら坐禅弁道する修行の期間をいう。」
と解説されています。
心を摂めてとありますように、「摂」には、「散乱しないようにおさめる」という意味があります。
ただいまの修行道場では、安居の期間には、一週間の摂心を毎月繰りかえすのであります。
四月の二十日は、その摂心の初日でありました。
円覚寺の修行道場では、摂心の間は毎日講座を行います。
その講座を始める時でもありますので、「開講」と言います。
安居の期間を制中と言いまして、安居に入るので、「入制」と申します。
そこで四月二十日を入制開講と言っています。
円覚寺の修行道場は、あまり広くないので、コロナも落ち着いてきたものの、修行僧と宗務本所の和尚様方をお招きして務めました。
開講ですから、講本を読むのですが、今回は「坐禅儀」をまず拝読することにしました。
坐禅儀という書物が、臨済宗に伝わっています。
長蘆宗賾という宋代の禅僧が編纂された「禅苑清規」(1103年刊)という書物の中におさめられているものです。
決して長蘆宗賾禅師が書いたものではありません。
この方は雲門宗の方でありますが、経歴の詳細は分かっていません。
清規というのは、禅宗教団の規則であります。
崇寧二年(1103)にできた『禅苑清規』には、まだ「坐禅儀」は入っていなかったと言われています。
嘉泰二年(1202)、『禅苑清規』の重刻に際して、その第八巻に収められたということなのです。
のちに元の時代になって『勅修百丈清規』ができあがることになるのです。
紹興二十七年(1157)にできた『大蔵一覧集』巻三には、現存最古の「坐禅儀」をみることができます。
栄西禅師の『興禅護国論』にもこの坐禅儀が載せられていて、そのもととなるのであります。
およそ十二世紀頃にできていたことはたしかなのであります。
ただいまは、『信心銘』『証道歌』『十牛図』とそして『坐禅儀』との四つの書物を集めて『禅宗四部録』と呼んでいます。
筑摩書房の『禅の語録一六』は、この信心銘、証道歌、十牛図、坐禅儀であります。
この筑摩書房の坐禅儀のはじめに、次の言葉が書かれています。
「古代インド人が坐禅した記録は、紀元前三千年まで遡るが、坐禅の仕方を書いた本の出現は、紀元前三世紀ごろにはじまる。
バラモン教の根本聖典「シュヴェータ・シュヴタラ・ウパニシャッド」(白い騾馬をひく仙人の奥義) はつぎのように言う。
「からだの三つの部分(胸・首すじ・頭)を上の方に伸ばしてまっすぐに保ち、もろもろの器官を意識とともに心臓に入れよ、
かれは、オーム(梵)の筏によって心をひきしめ、
一切の怖れをもたらす流れを渡る。」
「かれは呼吸をしずめその動揺を制して、
ほとんど呼吸が滅するほどに、鼻から息を吐きだす。
あばれ馬が引く車にのったように、
かれは気をおちつけ心をひきしめて、その意識を統一する。」
(高楠順次郎訳・ウパニシャッド全書 4)
昔も今も、坐禅の基本は変らぬ。
ウパニシャッドの坐法は、やがて「ヨーガ・スートラ」や「バガバド・ギーター」に継承され、独自の学派をなして今日に至る。
ヨーガとは、心をある対象に結びつけるという意味である。
仏教にとりいれられた古代インドの坐法は、やがて中国に来ると道家のそれと接して、いっそうの洗練を見せる。
坐禅という言葉は、おそらく道家の坐法と区別するために生れたと思われる。
そして、坐禅の仕方は当初つねに口伝に属した。
それらを体系化して成文化したのは、隋の天台智顕(五三八―五九八) であり、 『摩訶止観』はその代表作である。」
と書かれています。
インドの修行と、中国の道家の坐法とが相俟って今の坐禅になっていると思われます。
中国のお坊さんたちは、この坐禅を修行なさっていたのでしょう。
『臨済録』などを読んでも、坐禅の仕方については全く書かれていません。
臨済禅師も坐禅の修行をしていたことは確かなのですが、どのようになさっていたかは分かりません。
ただ『坐禅儀』というものが、できていたことから察すると、恐らくここに書かれているような、天台止観がもとになっている修行がなされていたと思うのであります。
『坐禅儀』には、はじめに、
「夫れ般若を学ぶ菩薩は、先ず当に大悲心を起こし、弘誓の願を発し、精く三昧を修し、誓って衆生を度し、一身のために独り解脱を求めざるべきのみ。」
という一文から始まります。
意味は「そもそも聖なる智慧を学ぼうとする修行者は、まずどうしても大慈悲の心を起こし、遠大な誓いをたてて、熱心に禅定を修め、迷いの衆生を救うことを誓うべきで、我が身のためにだけの悟りを求めてはならない。」
というものです。
この短い文章の中にも、「般若」「大悲心」「弘誓願」「三昧」「解脱」という仏教の大事な言葉が沢山あります。
初日は、まずこの「般若」を学ぶとはどういうことか話をしたのでした。
二十三名の修行僧達とこれから雨安居の修行を始めるのであります。
横田南嶺