苦しみに耐えることとは
藤田一照さんもそのように言われていました。
一照さんの『愉しい修行がもたらすもの』という小冊子(鴻盟社刊)には、のティック・ナット・ハン師との出会いが書かれていて、以前にも紹介したことがあります。
ティック・ナット・ハン師が来日された時の事、一照さんは通訳のメンバーに選ばれ、各地を訪れ講演会などを行う師に随行されたのでした。
ある日の早朝、ティック・ナット・ハン師がお弟子さんと一緒にプライベートに散歩をされているところに、一照さんがたまたま出くわしました。
ティック・ナット・ハン師は一照さんを招き寄せて、一緒に並んで歩くように誘ってくれました。
そして「一照さん、笑顔だよ! 修行は楽しいものでなくてはなりませんよ」と言ってくださったという話です。
長年曹洞宗の修行をなさってきた一照さんは「真剣に修行している者は、ヘラヘラしてはいけないし、第一、そんな甘っちょろい表情をしている余裕なんかないはずだ!」とでも言わんばかりのいかにも硬い表情をしていたのでした。
そして更に「ブッダもそうだったんですから。
気難しくしかめっ面をしている人の周りには、人は集まりません。
ブッダが愉快で幸せそうに歩いているから、その周りに人が集まったんですよ。
ブッダの生き方を見習おうとしている私たちもそうでなければならないし、そういうあり方ができるような修行をしているんですよ」と微笑みながら諭してくださったということです。
私もこの話を一照さんから聞いて大きな影響を受けました。
修行道場のあり方もいろいろ工夫するようになりました。
無理矢理坐らせる方法よりも、坐禅の良さを感じてもらって、坐ろうという気持ちにさせることに重点を置くようにしました。
坐れるようになり、坐る喜び、楽しさを感じられるようになって、おのずから坐りたくなるようにしようと工夫するようにしてきました。
一照さんが、今の修行道場では坐禅嫌いを作ってしまうだけだと言われたのも忘れられないのです。
先日、ティック・ナット・ハン師の教えを学んでいるプラムヴィレジの方々が主催する「日本仏教者とプラムヴィレッジの交流研修会」の講師として話をするように依頼されました。
五月に二泊三日山梨県で行われるものであります。
詳細は概要欄に紹介しておきます。
その依頼にプラムヴィレッジ招聘委員会の方が見えてくださいました。
その中に、かつて円覚寺で熱心に坐禅をされていた方がいらっしゃいました。
円覚寺の修行道場の摂心にも参加されたこともある方です。
今円覚寺の修行道場で取り組んでいることなどをお話してあげたのでした。
苦痛を耐える坐禅ではなく、苦痛のない坐禅、喜びを感じて坐ろうという思いになる坐禅を目指していることを伝えたのでした。
すると、かつての修行からみれば、今円覚寺で取り組んでいる修行では、苦しみが少なくゆるいものだと感じられたようでした。
そこで、今のような修行であれば、苦しみに耐える忍辱の修行はどうなるのですかと質問をされました。
楽しい修行や、苦痛でない坐禅だと、苦しみに耐えるという忍辱の修行にならないのではないかということでしょう。
たしかにお釈迦様も『法句経』のなかで、
「忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろブッダは説きたまう。」(183番)と説かれています。
坂村真民先生の詩にも
苦が
その人を
鍛えあげる
磨き上げる
本物にする
というのがあります。
苦しみに耐えないと修行にならないということです。
その時に私はその方にお答えしたのでした。
自分が受けた苦しみを基準に考えることに問題があるのではないかということを伝えました。
自分たちはこんな苦しい修行をしたのに、今の人は苦労が足らないという考えです。
そう言いたくなる気持ちはよくわかります。
自分たちが体験したのと同じような苦しみに耐えてもらいたいと思うものです。
しかし、その考えには慢心が既に潜んでいます。
自分はこんな苦しみに耐えたのだという思いが既に慢心です。
今の若者は苦労が足りないと思ってしまうのでしょうが、若い人は若いなりに苦しんでいます。
外からみればノホホンとしているように見えるかもしれません。
たしかに苦労して修行された方には、お寺のご子息が、お寺に生まれて大学を出てそのまま修行に来たというのでは、なんの苦労もしていないように思うかもしれません。
自分に比べれば苦労していないように見えるかもしれません。
しかし、皆苦しみを抱えて生きています。
お寺のご子息にはまたその境遇でないと分からない苦労があるはずなのです。
若い者に苦労がないということはないのだと私は思っています。
彼らは彼らの苦しみを抱えて生きているのです。
まずブッダの教えを学べば、人はこの世に生まれたこと自体が苦なのです。
生きていることは、どんな環境にあっても苦しみなのです。
みんな苦しみに耐えて生きているのです。
そのことを理解せずに自分だけが特別の苦労をしたように思うのは慢心なのです。
自分達の頃に比べれば甘いとか、ゆるいと思うかも知れませんが、今の人は今の苦しみを抱いて修行しているのです。
そう見ることが大切だと思うと伝えたのでした。
この世に生きることはみんな苦しみです。
そのようにご覧になったブッダの慈悲のまなざしを忘れてはいけないのであります。
お若い人にはお若い人なりの苦があるのだとこちらも感じて、その苦しみを共にして修行することが大事だと思っているのであります。
横田南嶺