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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.04.09
今日の言葉

聖なる道を求める – 農耕の暮らしから –

お釈迦様が出家なされる前にどのような暮らしをしていたのか、いつも紹介する言葉があります。

増谷文雄先生の『阿含経典による仏教の根本聖典』から引用します。

「比丘たちよ、いまだ出家せぬころのわたしは、苦というものを知らぬ、きわめて幸福な生活をしていた。

比丘たちよ、わたしの父の邸には池があって、青蓮や、紅蓮や、白蓮がうつくしい花をさかせていた。

わたしの部屋ではカーシ (迦尸)産の栴檀香が、いつも、こころよい香をただよわせていた。

わたしの衣服は、上から下まで、これもまたカーシ産の布でつくられていた。

比丘たちよ、わたしには三つの別邸があり、一つは冬によく、一つは夏に適し、一つは春のためであった。

夏の四月の雨の間は、夏の別邸にいて、歌舞をもてかしずかれ、一歩も外に出ることがなかった。

外に出る時には、塵や、露や、日ざしをさけるために、いつも白い傘蓋がかざされていた。

また比丘たちよ、他の人々の家では、奴婢や寄食者には、食に塩をそえて与えるだろうところを、わたしの父の家では、奴婢にも寄食者にも、米と肉との食事が供せられていた。」

と書かれています。

小国ながらも王子様でしたのできわめて裕福な暮らしであったことがよく分かります。

注目したいのは、終わりにある、

「また比丘たちよ、他の人々の家では、奴婢や寄食者には、食に塩をそえて与えるだろうところを、わたしの父の家では、奴婢にも寄食者にも、米と肉との食事が供せられていた。」

という文章であります。

中村元先生の『ゴータマ・ブッダ上』には、

「他の人々の(一般の)邸では、奴僕・傭人・使用人には屑米の飯に酸い粥をそえて与えていたが、わたくしの父の邸では奴僕・傭人・使用人には白米と肉との飯が与えられた」と書かれています。

お米を食べていたことがはっきりと書かれています。

またこの記述からも裕福であると同時に、お釈迦様の父王が、自分たちも使用人も区別せずに白米と肉を与えていたというところから、慈悲深いことが分かります。

身内も他人も区別しないということが後に怨親平等という言葉になってゆくのであります。

渡辺照宏先生の『新釈尊伝』(ちくま学芸文庫)には、

「さて、シュッドーダナをはじめ、その弟たちが、シュクローダナ、ドートーダナ、アムリトーダナとみなそろって「飯」を名につけているのは面白いことです。

ネパールは現在でも米の産地として知られていますが、釈尊の時代にもその地方の人々は多く米の耕作に従事し、水田の灌漑に苦労し、時には水の争いで事件をひきおこしたことも経典の中に記してあります。

釈尊の故郷の人々が米作によって生計を立てていたことは、仏教の背景を知るためにも重要なことです。

なぜかというと、耕作民には独特の生活環境や生活感情というものがあって、精神文化の面でもそれと無関係ではないからです。」

と指摘されています。

渡辺先生の説を少し参照してみましょう。

「釈尊の故郷のカピラヴァストゥの方面でも米作が盛んでした。

釈尊の父や叔父がそろって「飯」を名につけていたというのも、それと無関係ではないと思われます。

農耕民族には狩猟民族や牧畜民族とは異なる特色があります。

農耕は土地に結びついているので、他の場合よりも人と人との関係も緊密であります。

政治的に見ても統治が組織化されています。

また、農耕は集団的作業を必要とするので地縁的な社会組織がまとまっています。

かつまた土地権を主体とするので、家族制度や相続権が早くから確立されています。

その他、たえず勤勉努力を必要とし、秩序を重んじることも大切です。

保守的なことも多くの農耕民族に共通する傾向です。また同じ共同体の中では団結が固いが、他処者に対して差別する傾向も時には認められます。」

と指摘されています。

お釈迦様の教えが、常に精進努力を尊ぶ教えであったことや、秩序を大切にする教えであることも共通しています。

更に渡辺先生は

「しかし農耕民族にとってもっとも本質的な問題は大地との関係です。狩猟民や牧畜民とは違って大地から生え出るもののみを頼りにするのですから、大地の恵みに対して特に敏感です。

季節の移り変わり、耕作、種まき、植えつけから刈入れ、そして脱穀までの操作のあいだ、いつも自然の恵みと恐ろしさを身をもって感じているのが農民です。

日本でもそうであるように、季節の祭り、豊作を祈り、凶作を恐れる切な気持は自然に農民を敬虔な宗教に導きます。」

と説かれています。

農耕とお祭りも密接な関係にあるものです。

次の話はお釈迦様が何を求めて出家したのかを知ることの手がかりになります。

これも渡辺先生のご著書から引用しましょう。

「経典によると、釈尊がまだ少年であった頃次のようなことがありました。

ある年の春、例年のとおりシュッドーダナ王は多くの臣といっしょに鋤入れの式を行ないました。

日本でもそうであるように、一般に農耕民の習慣として君主が先に立って耕作をしなければ行事が始まらないのです。

この儀式に太子も参加して物めずらしげに農夫の働きを眺めていました。」

とありますように、若きお釈迦様も農耕のお祭りに参加されていたのでした。

更に

「泥と汗にまみれてあえぎ働く農夫の姿も太子の眼にはいたいたしく映りましたが、それにも増して太子の心を打ったのは、鋤で掘りかえされた土の中から虫が現われ、それと見る間にどこからともなく鳥が飛んできて虫をついばんで食うことでした。

生きもの同士が互いに食いあわなければ生きていけないという残酷な事実を目の前に見て、太子はいたたまれず、近くの森に行き、ある木蔭に坐って物思いにふけりました。」

というのであります。

そうなると、「太子の姿が見えないので人々が探しにいくと、そのまわりの樹々は日が動くにつれて蔭が移るのに、太子の坐っている樹のみは蔭が動かず、太子の身の上にいつまでも涼しい蔭を投げかけていました。それを見た父のシュッドーダナ王はそのこうごうしい姿に礼拝するのでした。」

と説かれています。

実に繊細な感情をお持ちであったことがよくわかる逸話であります。

渡辺先生も

「この説話から見てもわかるように、農民の苦しい労働、地中の虫の生命、弱肉強食、こういう事実が少年太子に強い心痛を与えたのでした。

「すべては苦」であるという仏教の命題もただの理屈ではなくて、実際生活の直接の体験に基づいていることに注目すべきだと思います。」

と説かれているのです。

農耕の暮らしが、仏教の教えの基礎に深く関わっていることがよく分かります。

かくして、聖なる道を求めてお釈迦様は出家の道を歩まれたのでした。

 
横田南嶺

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