飽くなき探求心
だんだんと春が近づいてあたたかくなっているのを感じます。
先日は、西園美彌先生にお越しいただいて、トレーニングをしてもらいました。
修行僧から、座骨の場所がつかめないという質問があって、はじめに丁寧に座骨についてワークを受けました。
西園先生のご指導の通りに行っていると、座骨の位置がはっきりします。
私が修行僧達の様子を見ていても、座骨を意識できるようになるだけで姿勢が変わってくるのが分かります。
いつもながら、素晴らしい指導だと感服していました。
今回も二人で組になって相手の足の裏に手のひらを当てて、足の裏が手のひらを吸い付けるようにして持ち上げるというワークを繰り返しました。
だんだんと足の裏の感覚が鋭くなってくるのが分かります。
それに足の指や足の裏を丹念にほぐしてゆくと、より一層足の裏の感覚が強くなっていて、そうして足で立つと、まさに大地を踏んで立っているという実感が得られます。
足で大地を踏みしめていると実感できるようになると、おのずと腰も立って丹田も充実しているのであります。
控え室でお話を伺うと、西園先生はご自身で講習を行うほかに、水泳や武術などを習っているとのことでした。
体のことについて飽くなき探究心を抱いて常に学び続けておられることに感服しました。
円覚寺での講座も何かしらいつも新しいことが取り入れられていて、驚くのであります。
私も負けないつもりで探求してゆこうと思うのであります。
反省することもあります。
自分自身が先生に習っているつもりで講習を受けているのですが、やはりどうしても修行僧のことが気になるもので、あの修行僧は先生の動きと反対になっているなとか、あの動き方では効果がでないとか、あれこれ気になっていると、先生から「老師反対です」と指摘されてしまいました。
自分自身が反対の動きになっていたのを注意していただいたのでした。
やはり探求というのは、他人を気にするのではなく、自分自身を見つめ掘り下げてゆくしかないのです。
朝比奈宗源老師も道を求めて飽くなき探求を続けられた方でありました。
『覚悟はよいか』には、禅の修行を終えられた老師が、ある老人から自分のように修行できない者には救いはないのかと問われて、村田静照和上を訪ねたのでした。
『覚悟はよいか』には次のように書かれています。
一部を引用します。
「儂が村田和上に会ったのは、三十一の歳だった。和上は六十八だった。
その頃、村田和上は、伊勢の一身田と川崎というところと、志摩の鳥羽の三ヵ所を定期的に回っておられた。
儂は、鳥羽へ行ったのだ。
一緒にいたのは五日、あとさき一週間だ。
ほんとにそれは、儂の求道の生活でもあのくらい緊張したことはなかった。
そこでは、朝六時に起きて、朝の御飯を食べて、散歩がてら隣の寺まで参って帰ってきて、たしか、八時から十二時までお念仏だよ。
それから御飯になって、また念仏になるんだ。夜まで、念仏だ。
夕食をすませて、また念仏になって、深夜の十二時までつづくのだ。
時々、和上がウーンといって、こうして掌を合わせると、いつも四、五十人も居る信者がみんな念仏をやめる。そこで、短い法話をされるんだ。
それが実に、その、うがったものでなあ。みんなありがたがって、そりゃ、生き仏だよ。
口先の法話じゃない。生活そのものが、世を超えている。」
という暮らしぶりだったようです。
そこで朝比奈老師は、
「儂は、和上にあって、仏道に近づくたしかな道に「信」と「悟り」があることをはっきり認識したよ。
何度もいうようだが、それまでは、自分は禅の修行をしたので、悟りのほうに拠っていた。
ところが、どうだ。
村田和上の「信」に触れたら、儂の見性などとてもおよばない。
儂はもう夢中になって、みんなと一緒に念仏した。
夜は十二時までだ。念仏が終って、儂のために用意してもらってあった部屋へ引きあげようとして、ちょうど和上の部屋の前を通ったのだ。
すると和上が、「ちょっと寄っていきませんか」という。
そこで、二人で信心の話をする。
和上は禅のことを聞きたがる。
だから儂は一所懸命、禅の話をしてあげる。
儂はまた、門徒の信心について思いっきり聞こうと思って、二人で…十月の下旬だった。
夜の長いときだ。
二人で話し込んでいるうちに、ランプの油がなくなって、真っ暗なところで話していたら、窓が明るくなったよ。
そしたら和上は、「まあ、ちょっと寝たふりをしましょうよ」とおっしゃるから、二人別々に自分の部屋へもぐって寝た格好をして、起きたことがある。」
というように、お互い真剣に参究されたのでした。
そして朝比奈老師は、
「自分が悟ろうと悟るまいと、お釈迦さまがあきらかにされた悟りの世界は、ちゃんとわれわれを包んでくだすっている。
たとえばそれを、永遠の生命といってもいい。
大慈悲といってもいい。
さっきの例ではないが、案内書や旅行記によって、その味わいかたが違うんだ。
そこで儂は、それらをひっくるめて「仏心」ということにした。
仏の心だよ。
その仏の心が、どこにあるかといえば、大きく見れば、この大宇宙を包摂しており、身近にいえば、この儂やきみの中にある。 宇宙の電気と同じで、逃れようにも逃れられないものなのだ。」と。
そこで朝比奈老師は、
「禅は修行者だけの宗門ではない。
自ら修行できぬものは、仏心を信ずればいい。
信ずれば救われるのではなくて、すでにきみは救われているのだ。
すべての人々は、救われてあるのだ。
そのことを信じてもらえればいい。」
と仏心の信心を説かれたのでした。
これもまた朝比奈老師の飽くなき探求心の成果なのであります。
横田南嶺