『禅的修行入門』
サブタイトルには「誰でもあらゆるものから自由になれる秘訣」と書かれています。
またカバーには、
「いかなるものにも固執してはいけません。たとえそれが真理であってもです」と鈴木老師は言いました。
「これがみなさんにとって最後の瞬間であるかのように修行するなら、あらゆるものから自由になれるでしょう」。
という序文にある言葉が書かれています。
この本は、『禅ビギナーズ・マインド』に続く講話集なのです。
鈴木俊隆老師という方がどういう方かというと、本書にある著者略歴には、
「1904年生まれ、神奈川県平塚市の曹洞宗松岩寺に生まれる。
22歳で静岡県周智郡森町の蔵雲院の玉潤祖温老師に弟子入り、 駒澤大学在学中に蔵雲院住職、1936年に静岡県焼津市の林叟院の住職となる。1959年渡米し、サンフランシスコ桑港寺住職になる。1962年サンフランシスコ禅センターを設立。1967年カリフォルニア州タサハラにアジア以外では最初の禅院である禅心寺を開く。
1971年に68歳で禅センターにて逝去。
渡米12年の間にアメリカにおける禅の基礎を築いた。
欧米では20世紀を代表する精神的指導者の一人とされる。」
と書かれています。
世界に禅を伝えたと言われる鈴木大拙先生とも比較されるようです。
二人の鈴木と並び称せられる、そのひとりなのです。
この鈴木老師の本は、平易な言葉で書かれていますが、どれも深いものなのです。
深遠な真理を平易に語れる方だという印象を持っていました。
訳者あとがきに、藤田一照さんは、
「順境であれ逆境であれ、人生のあらゆる局面を自分の修行の糧としてひるまずに引き受け、誠実に深く生きていくということが、実際にはどのようなことであるか、鈴木老師はその微妙なニュアンスや味わい、奥深さを母国語ではない英語によって伝えるべく、並々ならぬ努力をされています。
深遠なこと、常識からすれば理解しがたいこと、受け入れがたいことを、なんとか英語でわかるように語ろうと鈴木老師が苦労していることが、かえってわれわれに訴えかけてくる力を生みだしているのです。」
と書かれていますが、それは実になみなみならぬ苦労の賜物なのだと分かりました。
平易に語るほど難しいことはないのです。
いくつか感銘を受けた言葉を引用します。
「鈴木老師は、人生を永久に変えてしまうような特別な体験を得ることをめざすという考えを、「間違い」あるいは「観光的な修行」として断固否定しています。
しかし同時に、悟りなどないとも言っていません。
それは「今この瞬間を忘れて、次の瞬間へと成長していくこと」だと老師は言っています。 「みなさんがどこにいようとも、悟りはそこにある」とも言っています。」
という言葉が印象的でした。
悟りを目当てにしようと思うと間違いを犯してしまいがちです。
どこにいようとも、悟りはそこにあるというのが真理であります。
ただその真理の自覚が大切なところであります。
鈴木老師の教えはどのようなものかと言うと、次の教えが参考になります。
「鈴木老師が言い続けたただ一つのこと、それは「只管打坐を行じる」ということでした。
只管打坐は英語ではたいてい just sitting (ただ坐る)と訳されていますが、「思考を抑圧することでもなく、また思考に耽ることでもない」と表現することもできます。
鈴木老師は「一瞬一瞬に生きなさい」「息を吐き切りなさい」といったさまざまな表現をしています。
それは、その気になれば際限なく説明することができるけれども、そうしたところで何の説明をしたことにもならないような表現の一つです。
そしてみなさんがもし立ち止まって、「これ」が只管打坐ではないかと思ったなら、それはおそらく只管打坐ではないでしょう。」と書かれています。
「心の平静さ」という章には、
「心の平静さは吐く息が終わったその向こうにあります。
ですから、息を吐こうとすることさらな努力をしないで、みなさんは完全でただ滑らかに息を吐いていくなら、完璧な心の平静さの中に入りつつあるのです。
只管打坐、つまり私たちのやっている坐禅とは、自分自身であるということ、ただそれだけです。
いかなることも期待しないでいるとき、私たちは自分自身であることができます。
それが私たちの道であり、一瞬一瞬を十全に生き切るということです。
この修行は永遠に続いていきます。」とあります。
このあたりのことは、道元禅師の仰せになった、
「「無所得無所悟にて端坐して時を移さば、即ち祖道なるべし」という正法眼蔵随聞記の言葉を思い起こします。
「戒律を守る」という章には
「戒律を守ろうという努力をすることなしに戒律を守っている、それがほんとうに戒律を守っているということなのです」の言葉があって、これは盤珪禅師が、仏心のままでいれば戒は不要と説かれたことに通じるのです。
易しい言葉で、本質を語ってくれているのです。
「蛙のように坐る」
という章があって目にとまりました。
そこには、
「蛙は私たちの修行の良い実例です。
かなり長い間修行を続けてきた人なら、修行についての間違った考えに深入りしている人を見てちょっと笑い、何もしないで、たいした進歩もなくいつも坐っている自分自身を見てちょっと笑うでしょう。」
と書かれています。
更に詳しく読んでみると、
「最近私はカレンダーに仙厓の蛙の画があるのを見ました。
その画には仙厓の言葉がつけられていました。
「私たちがもし坐禅の修行によって仏になれるのなら….. (坐禅して人が仏になるならば)」と。
彼はそれ以上は何も言っていませんが、蛙の考えていることは想像できます。
「もし人が坐禅の修行によって仏になることができるのなら、俺も仏になれるはずだ」 (笑)。」
と書かれています。
蛙は、日がな一日坐っています。
坐禅して仏になれるなら、蛙はとっくに仏に成っているだろうと仙厓さんは言うのです。
これは普通形だけまねして坐っていても駄目だという教えとして受けとめられています。
鈴木老師は、更に
「修行について少しでも理解できている人なら、悟りを得るために坐っている人を見たら、こう思うでしょう。
「ああ、あの人は蛙みたいに坐っているな」と。
実際、蛙の坐り方は私たちの坐禅よりよほどましです。
私はいつも彼らの修行をほめています。
彼らは決して眠くなったりしません。
彼らの眼はいつも開いています。
そして直観的に適切なやり方でものごとを行います。
食べ物が近くにやってくると、こんなふうにやります。
ペロッ!
彼らは何一つ見逃しません。
いつも落ち着いていて静かです。
私は蛙のようになれたらいいのにと思っています。」
と書かれているのです。
居眠り坐禅しているよりも蛙の方がよほどましだという説には、納得させられました。
『禅的修行入門』、易しい言葉で禅の本質が説かれています。
横田南嶺