慈悲と仁
そこで大勢の生徒達に講義をなさっていました。
講義をするうちに、いくら儒学を学んでもこれは「古人の糟粕」に過ぎないのではないかと疑念を抱きました。
そんな頃に禅の書物を読むと、「教外別伝、不立文字」という言葉を見つけて、教えの他に外えるもの、文字を立てずに伝えるという禅の教えに心惹かれていったのでした。
ある時に、『孟子』を講義していて、その中に「浩然」の気という一章にふれて、「孟子は浩然を説く、我は浩然を行う」と声をあげたのでした。
「浩然」とは、『広辞苑』では、
「①水が盛んに流れるさま。
②心などが広くゆったりしているさま。」
と解説されています。
「浩然の気」というと、これも『広辞苑』には、
「[孟子(公孫丑上)「我善く吾が浩然の気を養う」]
①天地の間に満ち満ちている非常に盛んな精気。
②俗事から解放された屈託のない心境。」
と書かれています。
そこで、出家の志を固めたのでした。
親族や門人達と別れの会を催して、ひとつの漢詩を示されました。
それが、
孔聖釈迦別人に非ず。
彼は見性と謂い此は仁と謂う。
脱塵怪しむこと莫れ、
吾が粗放なることを。
箇の浩然一片の真を行ぜん。
という漢詩であります。
一句ずつ解説しますと、
「孔聖釈迦別人に非ず。」
の孔聖とは中国の孔子のことです。
儒教ではもっとも大切な方であります。
その儒教の孔子と釈迦とは別人ではない、同じだというのです。
もっとも同一人物ということではありません。
同じ教えを説いているという意味であります。
第二句で、
「彼は見性と謂い此は仁と謂う。」とあります。
彼というのはお釈迦さまです。
此というのは孔子であります。
お釈迦さまは、「見性」と説き、孔子は「仁」と説いたということです。
見性というのは、どういうことかというと、『禅語辞典』には、
「己の本性が仏の本性に外ならないと悟ること」と解説されています。
『禅学大辞典』には「自己の本性を徹見すること。悟道」という意味が書かれています。
自己の本性は、そのまま仏の本性であるということです。
仏の本性を、仏性とかあるいは仏心と言います。
仏心というのはどういうものかと言うと『観無量寿経』には、
「仏心とは大慈悲是れなり」と説かれています。
ということは、「見性」というのは自己の本性が大いなる慈悲の心であると目覚めることになります。
「慈悲」とは何かというと、
『仏教辞典』には、
「仏がすべての衆生に対し、生死輪廻の苦から解脱させようとする憐愍の心。」であります。
語源的には、「慈悲の<慈>は、友から派生した「友愛」の意味をもつ語です。
他者に利益や安楽を与えることであります。
「<悲>は他者の苦に同情し、これを抜済しようとする(抜苦)思いやりを表す」ものです。
「南伝仏教の注釈も、<慈>とは利益と安楽をもたらそうと望むこと、<悲>とは不利益と苦を除こうと欲することと説明」されているのです。
洪川老師の漢詩に戻りますと、第三句で、
「脱塵怪しむこと莫れ、吾が粗放なることを。」とあります。
脱塵は世俗を脱することで、出家することです。
「粗放」は、「荒っぽく、締まりがないこと」です。
そして結句は「箇の浩然一片の真を行ぜん。」となります。
自分は浩然というひとつの真を行じたいのだということです。
全体を意訳しますと、
孔子も釈迦も別人ではない、
釈迦は見性を説き、孔子は仁を説いた。
いきなり出家することを、荒っぽいことだと思わないでほしい。
私は浩然というひとつの真を実践したいのだ。
ということになります。
さて、お釈迦さまが「見性」と説き、孔子が「仁」を説いたのが、その本質は同じだというのが洪川老師のお説なのであります。
自己の本性は、慈悲の心でありますが、慈悲と仁とは同じであろうかというとこれはいろいろな意見があろうかと察します。
似通うところもあるのは事実であります。
「仁」を『大漢和辞典』で調べてみると、
「いつくしむ、親しむ。いつくしみ、したしみ。めぐみそだてる。あはれむ。しのぶ。なさけ、おもひやり。うるほひ。徳教、教化。人、又、人の心。心の本体、性、理、覚。愛の理、心の徳。己を修めること。諸徳の総称。有徳の人。」
などなど沢山あります。
『論語』にも「仁」についてはたくさんの記述があります。
ざっと思いつくだけでもいくつも説かれています。
原文は省略して岩波文庫『論語』にある金谷治先生の訳文を引用します。
「顔淵が仁のことをおたずねした。
先生はいわれた、「〔内に〕わが身をつつしんで〔外は〕礼〔の規範〕にたちもどるのが仁ということだ。」
「仲弓が仁のことをおたずねした。
「先生はいわれた、「家の外で〔人にあうときに〕は大切な客にあうかのようにし、人民を使うときには大切な祭にお仕えするかのようにして身を慎しみ〕、自分の望まないことは人にしむけないようにし〔て人を思いやり〕、国にいても怨まれることがなく、家にいても怨まれることがない。」」
「司馬牛が仁のことをおたずねした。先生はいわれた、「仁の人はそのことばがひかえめだ。」」
「樊遅が仁のことをおたずねすると、先生は「人を愛することだ。」といわれた。」
「樊遅が仁のことをおたずねした。
先生はいわれた、「家にいるときはうやうやしく、仕事を行なうときは慎重にし、人と交際しては誠実にするということは、たとい〔野蛮な〕夷狄の土地に行ったとしても棄てられないことだ。」」
「子張が仁のことを孔子におたずねした。孔子はいわれた、「五つのことを世界じゅうに行なうことができたら、仁といえるね。」
進んでさらにおたずねすると、「恭しいことと寛なことと信のあることと機敏なことと恵み深いこととだ。
恭しければ侮られず、寛(おおらか)であれば人望が得られ、信(まこと)があれば人から頼りにされ、機敏であれば仕事ができ、恵み深ければうまく人が使えるものだ。」
というところであります。
人を慈しむという慈悲と、人を愛するという仁とで、洪川老師は通底するところをご覧になったのだと察します。
洪川老師は、「天と曰い、仏と曰い、性と曰い、明徳と曰い、菩提と曰い、至誠と曰い、真如と曰う。一実多名なり」と説かれていますように、根本となるものは一であり、それに様々な名を付けたのに過ぎないというのであります。
人間の根本は、慈悲の心、思いやりの心であるということを説かれているのであります。
横田南嶺