道、窮まりなし
老師は、この十五日で九十歳になられました。
近年ご縁をいただいて、こうして私如き若輩にまでお心配りくださることには、頭が下がるばかりであります。
いただいた書籍は、『道はるかなりとも』です。
この本は既に二度出されています。
初版は一九八七年、青山老師の半世紀のご生涯を書かれたものでした。
それから一九九八年にその後の十年の歩みを加えて改訂版が出されています。
今回更に二十四年の歩みを加えて、上梓されたものです。
私はその改訂版を持っていましたので、ほとんどは既に拝読していたものであります。
しかし、後半の二十四年分の歩みにも拝読して感銘を受けました。
その書籍と『無量寺便り』などもお送りいただいたのでした。
『無量寺便り』を拝見すると、なんと有り難いことに、「円覚寺の横田老師と対談」という記事が載っていました。
昨年七月二十一日に青山老師と愛知尼僧堂で対談したことを紹介してくださっていました。
有り難いことであります。
今年の夏にも塩尻の無量寺の禅の集いに講師としてお招きいただいています。
三年ほど延期が続きましたが、今夏こそはと思っています。
『道はるかなりとも』の巻頭には、美しい字で、
「道無窮」と書いてくださっています。
この道はどこまで行っても終わりがないということです。
この「道無窮」については、『無量寺便り』に書かれていました。
引用させていただきます。
「道窮りなし」の精進を、という題です。
「「修行はつねに現在進行形」の言葉から思いおこす忘れられない言葉がある。
「ミイラになったような悟りを背負いまわしてもしようがない」の内山興正老師の一言。
正師について参禅し、 聞法し、行じつづけていくうちに、“これだ!”と気づくこと、“なるほど”と納得することもしばしばある。
一度気づけばよいというものではない。」
というのです。
「ミイラになったような悟り」とは内山老師の手厳しい表現であります。
どんな立派な悟りであったにせよ、それを文字にしたり、人に語った時点で既に過去のものであり、干からびてしまっています。
私のところにもたまに自分は「素晴らしい悟りを得た」というお手紙を頂戴します。
確かに書かれていることは素晴らしい悟りなのですが、文字に認めで、封書で送ってくる時点で既に真実は遠ざかってしまっていると思うのです。
そのあと更に
「凡夫が悟ったら箸にも棒にもかからぬ人間になる」という章がありました。
こちらも引用させてもらいます。
「ある講演会の講師にたのまれて赴いた。
聴衆の中に臨済宗の僧侶の方がおられ、帰り、どうしても名古屋まで送らせてくれと申し出られ、約二時間かけて自家用車で送っていただいた。
その方は私にお話がしたかったのである。
いろいろのお話の中で特に強調して語られたのが、印可証明をもらったというお師家さまの御乱行ぶりのお話であった。
“悟ったら何をしてもよい”、そんな乱れた生き方に対する歎きの言葉を聞きつつ、澤木老師の「凡夫が悟ったら箸にも棒にもかからぬ人間になる」のお言葉と、「ミイラになったような悟りを背負いまわしてもしようがない」の内山老師のお言葉をかみしめたことであった。」
と書かれていました。
厳しい修行の末に、常人にはできないような体験をすると、もうこれでいいと思ってしまうことがあるようです。
これは気をつけないといけません。
青山老師も道元禅師の言葉を用いて示されています。
「道元禅師も「人々分上ゆたかにそなわれりといえども、修せざるにはあらわれず、証せざるには得ることなし」(辦道話)と、修と証(修行と悟り)という形で、気づくことの大切さを説いておられる。
しかしその後で、気づきは貧しい自分の受け皿の範囲しか気づけないんだよ、この天地悠久の真理はわれわれの及ぶべくもない深遠なものであり、それに向かって「道窮りなし」の、卒業なしの修行を示される。」
と説かれています。
これらのお言葉を深く胸に刻みました。
『道はるかなりとも』の中には、
「本具の仏性に気づかせていただく」という一章がありました。
引用させてもらいますと、
「禅の語録(『従容録』)に出てくる言葉に「参じ飽きて明らかに知る、求むる所無きことを」というのがあります。
さんざん探し、求め歩いてみて気づいたことは、無いものをあらたに手に入れることではなく、始めから授かっていることに気づくだけのことであった、というのです。
この体は三十七兆の細胞からできているといいます。
三十七兆箇の細胞が総力をあげて、この一つの生命を生かしてくれている。
その背景には全地球をあげてのお働きがあり、その又背景には太陽系惑星相互の引力のバランスや銀河系の果てまでもの、宇宙総力をあげてのお働きがあるというのです。
気づく気づかないにかかわらず、地上の一切のものが、人間から動植物に到るまで、この働きをそれぞれが一身にいただいて、それぞれの生命の営みがあり、それを仏教では仏性と呼んでおります。」
というのです。
そして次に「天地の働きに気づくことができるのは人間だけ」という章があって、
「この働きを釈尊は「縁起」と呼び、更に般若の「空」思想へと展開し、名をつけて呼びたい、姿にあらわして拝みたいという願いから、人間の姿を借りて毘盧舎那仏とか大日如来とか、さまざまな仏さまが象徴的につくられました。」と示されています。
仏教の最も肝心なところを、実に平易な誰にでも分かる言葉で示されていることに有り難いと思います。
青山老師のお心を頂戴して、この道は窮まりなしと肝に銘じて精進しなければと思ったのでした。
横田南嶺