投げ放ってこそ
今回は、曹洞宗の藤田一照さんと、魔女トレの西園美彌先生もご参加されました。
それぞれ、一流の講師でいらっしゃる先生方と共に学べることは有り難いことです。
奘堂さんは、前回十一月にお越しいただいて、二ヶ月ぶりとなります。
前回の十一月の講座の後、ご自身で更に探求されて、お気づきになったことがあるというので、今回も懇切丁寧にお教えくださいました。
今回は、赤ちゃんの動画をたくさん見せていただきました。
以前藤田一照さんから、二歳児が腰を立てて坐った写真を見せていただいたことがあります。
どこにも力みがなく、自然と腰の立っている姿でありました。
そういう写真を拝見すると、なるほど、私たちは本来腰を立てて坐ることができるのだと思っていました。
ところが、奘堂さんは、それは勘違いだったというのです。
多くの赤ちゃんは、端正な姿勢なのだそうですが、0歳児から腰が落ちて背中が丸まってしまうこともあるのだそうです。
その原因が、「お坐りの練習」にあるというのであります。
これは助産師の方の仰っていることだそうです。
そんな実例を動画でいくつも見せていただきました。
赤ちゃんがお坐りをするのが、だいたい六ヶ月くらいからなのだそうです。
そういう知識を得ると、六ヶ月からお坐りの練習をさせなければと思ってしまいます。
そこで、親が一所懸命にお坐りの練習をさせてしまいます。
それがうまくゆく場合もあると思いますが、寝返りをしたりはいはいをしたり、自然の成長の過程でお坐りをするのではなく、無理にお坐りの練習をさせることになってしまうと、上手にお坐りができなくなるというのであります。
無理に坐らせると、人間は苦痛でありますから、すぐにだらけてしまうことになります。
奘堂さんは、人間は誰しも腰が落ちて背中が丸くなるという習性をもっていて、これは死ぬまで治らないと仰っていました。
それは、ご自身もそうなのだと仰せになっていたことが印象的でありました。
奘堂さんは、これまで、人に対してそれでは腰は立たないと厳しくご指摘されていました。
私もそのようにご指摘をいただいて、大いに啓発させられたのでした。
しかし、今回は、ご自身もそうなのだとお認めになってお話くださるので、聞いている方にも、すんなりお話が入ってきました。
講義のあとで、控え室で、「奘堂さんも丸くなったね」と申し上げたのでした。
お互いに共に、すぐに腰が落ちて背中が丸くなるのだから頑張りましょうと言ってくださると、こちらも大いに力が湧いてくるものです。
とある助産師の方が、本人がはいはいしたり、坐る課程を経て身につけたのではなく、無理にお坐りの練習をしてきた赤ちゃんは、おとなしく動けなくなることがあると指摘されていたのには、驚きました。
おとなしいというのは、あまり良い意味ではありません。主体性が失われてしまうのです。
さて、この赤ちゃんの成長の過程をそのまま、私たち成人の修行と同じにしてしまうことには問題があるかもしれませんが、大いに考えさせられてしまいました。
私たちは、まさしく毎日この「坐る練習」をしています。
じっと坐るということを無理にさせています。
ひとつの形でずっと静止することを習います。
それが坐禅の姿であります。
しかし、奘堂さんは、赤ちゃんの例を用いて、ひとつの形でいるということにとらわれてしまうと、固まってしまうのだと指摘されていました。
そして、無理に同じ姿勢を取るようにさせると、必ずその反動で、それ以外の時間は腰が落ちて背中が丸くなり、だらけてしまいます。
この問題は確かにあります。
長年修行道場で修行されたという方でも、普段の姿勢が、腰が落ちて背中が丸くなっていることが確かにあります。
なぜなのかと長年不思議に思っていました。
摂心の坐禅の時間は良い姿勢になるのでしょうが、それ以外はだらけてしまうのです。
これでは、正念相続や不断坐禅とは言い難いものです。
終わった後、控え室で一照さんたちと、自分達は修行だと言いながら無理矢理同じ姿勢をさせて、却って姿勢を悪くさせているのではないかと話をしたのでした。
思い出したのが、「教壊」という言葉です。
鈴木大拙先生が、
「禅者の言葉に「教壊」と云うがある。
これは、教育で却って人間が損われるの義である。
物知り顔になって、その実、内面の空虚なものの多く出るのは、誠に教育の弊であると謂わなくてはならぬ。」
というのです。
『碧巌録』にも出てくる言葉です。
教えることによって、却って本来持っているすばらしいものを壊してしまうことなのです。
ある姿勢という形を教えてそれにはめ込むのではないのとしたら、どうしたらいいのでしょうか。
奘堂さんは、そこで礼拝、祈りを説かれるのであります。
奘堂さんとご縁があった岡本貞雄先生の言葉を紹介されていました。
それは岡本先生が藤井虎山老師から受けた「拝禅」という言葉です。
無心にすべてを擲って拝するところに厳然としてあるものだというのであります。
その拝禅というのは、「苦行としての拝ではなく、無心の礼拝、只の礼拝、なり切った礼拝といったイメージだ」そうです。
全てを投げ出した礼拝、その一拝に全身全霊をうちこむと、
そこに全てが現前しているというのです。
人間が考えてやろうとして到達するものではありません。
どんなに習おうとしても届かないものがあるので、それにはもう頭をさげてすべてを投げ出すしかないというのです。
それが礼拝という姿になるのです。
礼拝もただ形だけをマネして駄目なのです。
すべてを投げ放つのが大事なのです。
そこで、奘堂さんが編み出された礼拝から坐る姿勢になるという動作を繰り返し教わりました。
しかし、これも単に練習になっては同じ過ちを犯してしまうので、一回一回新たな礼拝をすることだと教えていただきました。
無理にお坐りの練習をすることが、却って姿勢を悪くし主体性を奪ってしまうのですが、自然に発達してゆけば、赤ちゃんは言葉を覚える以前に正しく腰を立てて坐る極意をすでに身につけているのです。
このことは目に見えない天地の大いなる力がお互いにはたらいているとしか言いようがありません。
天地自然の大いなる理がお互いの体にはたらいているのです。
その本来性を如何に発揮するかが修行の眼目であります。
すぐに腰が落ちて背中が丸くなる習性のままに落ちてしまってはどうにもなりません。
ありのままでよいというと、耳障りのよい言葉ですが、腰が落ちて丸くなったままになりかねません。
その方が多いのです。
そうではなく、すべてを擲ってこそ、天地の道理がこの身にあらわになるのです。
それが礼拝であり、坐禅であることを学びました。
「聖人なる者は天地の美に原(もと)づき、万物の理に達す。」という荘子の言葉を引用され、奘堂さんは「万物の理にもとづき、天地の美に達する」と読み込まれていました。
私などは、何度も何度も奘堂さんの講義を受けてようやくわかりかけてきましたが、西園先生は初めてでいらっしゃいましたが、さすが奘堂さんの説かれているところをご理解なさったようで、実に的確な感想を述べておられました。
赤ちゃんの動画は修行僧達にも分かりやすかったようで、皆熱心に学んでいました。
有り難い学びでありました。
横田南嶺