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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.01.16
今日の言葉

「飾り気のないところに打たれた」

本日一月十六日は、円覚寺の今北洪川老師のご命日であります。

明治二十五年(一八九二)にお亡くなりになっていますので、いまから百三十一年前であります。

洪川老師といってもあまりその名は知られていないと思います。

かの鈴木大拙居士が、円覚寺で初めて参禅された老師なのであります。

大拙居士は、洪川老師にお目にかかったときのことを次のように記されています。

「筆者が老師にお目にかかったのは、確か老師示寂の前年であった。

自分は二十を越えたばかりの書生であったのみならず、世間のことなどについては全くの無経験者であったので、円覚寺の居士寮に落ちついたときなどは、妙な心もちであった。(中略)

老師は堂々たる体躯の持ち主であった。

自分は何を言って、老師は何と言われたか、今全く忘れているが、ただ一事あって記憶に残る。

それは老師が自分の生国を尋ねられて加賀の金沢だと答えたとき、老師は「北国のものは根気がよい」といわれた。

「大いにやれ」とはげまされたか、どうかは今覚えていない。

そのとき老師の人格からどんな印象をうけたか、それも今覚えが無い。

今覚えているのはいつかの朝、参禅というものをやったとき、老師は隠寮の妙香池に臨んでいる縁側で粗末な机に向かわれて簡素な椅子に腰掛けて今や朝餉をおあがりになるところであった。

それが簡素きわまるもの。

自ら土鍋のお粥をよそってお椀に移し、何か香のものでもあったか、それは覚えていないが、とにかく土鍋だけはあった。

そしていかにも無造作に、その机の向こう側にあった椅子を指して、それに坐れと言われた。

そのときの問答も、また今全く記憶せぬ。

ただ老師の風貌のいかにも飾り気無く、いかにも誠実そのもののようなのが、深くわが心に銘じたのである。」

と『激動期明治の高僧 今北洪川』(春秋社)に書かれています。

大拙居士は、そんな洪川老師の人となりに触れて、禅の道を歩み始めたのでした。

後に大拙居士は、

「飾り気のないところに打たれたのだ。

なるほど、坊さんとはこういうものかとね。

いまの坊さんとはだいぶちがうぞ。

このとき、坐禅はすべきものだと思ったね。

とこにかく、わしが明治の若いときに、強い印象を受けた人はこの人だけだったな」(『鈴木大拙随聞記』)と語っておられます。

洪川老師は、文化十三(一八一六)年のお生まれといいますから、江戸時代の終わり頃にお生まれになっています。

洪川老師は学者の家に生まれました。

大阪に今でも福島という地名がありますが、その福島のお生まれです。

大阪の中之島で儒学の学校を開いておられたこともあります。

遷化されたのは七十七歳のとき、明治二十五(一八九二)年ですから、明治時代の半ば頃までご活躍なさったのでした。

洪川老師は幼い時からまわりの子たちとは少し変わっていて、子供の頃から、夏だからといって薄着をせず、冬だからといって囲炉裏で手を焙ったりせずに、いつも儒学者のお父さんの書斎で一緒に勉強をしていて、他の子供たちと遊んだりはしなかったといいます。
 
七歳のときにお父さんが初めて漢文を教えました。

七歳から漢文を始めて八歳、九歳の頃には四書五経をそらんじていたというのですから聡明な方であったのでした。

もうほとんどの漢籍を読みこなして十四歳で、藤沢東畡という当時の儒学者と面会し、その東畡が白文の荻生徂徠集を出してきて読ませてみたところ、堂々とした大きな声で読んだというのです。

それを見た東畡はびっくりして「なんという優れた子だ」と感嘆したのでした。

天保五(一八三四)年、十九歳のときに、大阪の中之洲(今の中之島)に儒教の私塾を開きました。

通ってくる生徒はいつも三十人を下ることがなかったといいます

ある日の講義で『孟子』の「浩然の気」について書かれた章に差し掛かったとき、突然、洪川老師は「孟子は浩然を説く、我は浩然を行う」と宣言をして、生徒たちを驚かせました。

浩然の気というのは、海が滔々として溢れているように、広く豊かなゆったりと天地を包むような大きな気のことです。

洪川老師はそういう気を体得してみたいと、突然思ったのでした。

書物の上だけではなく、それを実践して、体得したいと思ったのです。

こうして膨大な漢籍を読み込むうちに仏教、殊に禅に対して惹かれていった洪川老師は世間を出て出家をする希望を抱いたのでした。

はじめは京都の相国寺で修行されました。

辛酸を喫しながらも八年ほど相国寺に留まって修行し、更に三十一歳で、大拙老師の命によって備前の曹源寺に行き、儀山老師に参禅して、この老師のもとで禅の奥義を極められました。

三十九歳で、京都嵯峨の天龍寺塔頭瑞応院に住し、更に安政六年周防岩国の領主吉川経幹(きっかわつねまさ)の招きに応じて、永興寺に入ったのでした。

この時期に『禅海一瀾』という書物を書かれています。

これは、文久三年(一八六三)、吉川公の為に説いて献上されたものです。

こうして永興寺に十数年住して、明治八年(一八七五)数え年六十歳で、鎌倉円覚寺に招かれたのでした。

十七年にわたって円覚寺で多くの僧侶や在家の方を指導されて、明治二十五年、一月十六日に亡くなったのでした。

洪川老師の世寿は、七十七でありました。

鈴木大拙居士は、洪川老師のことを「一言で言えば至誠の人だということができる」と表現しています。

至誠の「至」は至高とか至上とかいう「最高の、この上ない」という意味です。

ですから「この上ない誠」を実際に体現したのが洪川老師であるというようなことを鈴木大拙居士は述べているのです。

洪川老師のもとには、山岡鉄舟、鳥尾得庵、奥宮慥斎、北条時敬をはじめ多くの方が参禅されたのでした。

今の円覚寺の礎を築いた老師の一人であります。

青年期の大拙居士が「飾り気のないところに打たれた」というところに洪川老師の人となりを思います。

洪川老師について、詳しく知りたい方は、円覚寺の蓮沼直應先生が、「禅人ZENzine《ゼンジン》」というサイトに詳しく書いてくださっていますので、参照してみてください。

蓮沼 直應 – 鈴木大拙が出会った人々(2)今北洪川-前編

 
横田南嶺

「飾り気のないところに打たれた」

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