無分別
「無分別」を『広辞苑』で調べてみると、
「①〔仏〕主体と客体の区別を超え、対象を言葉や概念によって把握しないこと。
②分別のないこと。前後の考えがないこと。思慮のないこと。」と書かれています。
「無分別な若者」という用例がありました。
しかしながら、一番には、仏教語として「主体と客体の区別を超え、対象を言葉や概念によって把握しないこと」という本来の意味が書かれていることに注目します。
また『広辞苑』には「無分別智」も載せられていました。
「無分別智」とは「〔仏〕無分別にもとづく智慧。根本智」と解説されています。
それではと、岩波書店の『仏教辞典』で調べてみました。
「無分別」については、
「分別から離れていること。
主体と客体を区別し対象を言葉や概念によって分析的に把握しようとしないこと。
この無分別による智慧を<無分別智>あるいは<根本智>と呼び、根本智に基づいた上で対象のさまざまなあり方をとらわれなしに知る智慧を<後得智>と呼ぶ。
無分別を実現した心のあり方を<無分別心>という。」
と書かれています。
そしてその終わりに、
「なお一般には、思慮がない、見さかいがない、わきまえがないなど、悪い意味にも使われる。」という意味も載せてくれています。
用例として盤珪禅師の語録が掲載されていました。
「分別は惑ひ有るゆゑに分別を備ふるなり。
無分別智に到れば、分別已前に、物を照らし分け、つひに惑ふことなし」というのであります。
分別というのは、惑いがあると書かれています。
逆に無分別は、分別以前に物を照らし分けて惑いがないというのです。
では、逆に「分別」を調べてみました。
こちらは、
「対象を思惟し、識別する心のはたらき。
すなわち普通の認識判断作用をいう。
凡夫のそれは、個人の経験などによって色づけられた主観と対象としての事物との主客相対の上に成り立ち、対象を区別し分析する認識判断であるから、事物の正しいありのままの姿の認識ではなく、主観によって組み立てられた差別相対の虚構の認識にすぎない。
それゆえ凡夫の分別は、<妄分別>ないし<虚妄分別>と呼ばれる。
それに対し、主客の対立を超えた真理を見る智慧を<無分別智>という。」と解説されています。
そのあとに、
「俗には、物事をわきまえることの意に用いられ、<無分別>といえば思慮の足りないの意義で使われるから、この用法は<無学>(有学(うがく)・無学(むがく))の例と同様、本来の意義とは反対の用法である。」
という説明も添えられています。
分別とは「個人の経験などによって色づけられた主観と対象としての事物との主客相対の上に成り立ち、対象を区別し分析する認識判断」なのであります。
それはまた「ありのままの姿の認識ではなく、主観によって組み立てられた差別相対の虚構の認識にすぎない」のであります。
そんな一例として辻光文先生の言葉で学んでみたいのであります。
大阪阿武山で問題を起こした児童を預かる施設で、生徒の更生のために尽くしておられたのが、辻光文先生でした。
シンナーや窃盗、売春などをした児童を、小舎夫婦制という家庭的な生活の中で生活指導し、自立を援助する児童自立支援施設なのです。
辻先生は昭和五年(一九三〇)、東京で生まれ、秋田県の山の中の禅寺で育ちました。
長じて京都の臨済学院専門学校(後の花園大学)に進みました。
幾多の苦労を重ねますが、大阪市立阿武山学園という小舎夫婦制の施設で、道を踏み外した児童たちと生活を共にしながら、自立を手助けするようになりました。
あるとき、辻先生の許に母に捨てられたS子が送られてきました。
スーパーにいっしょに買い物に行っていたとき、置き去りにされ、捨てられたのでした。
親戚の家をたらい回しにされた後に、施設に廻されてきたものの、S子はあばれるばかりだったといいます。
辻先生にも悪態をつき、トラブルばかりでした。
さしもの辻先生ももてあまし、「この子さえいなければ」とため息をつくこともありました。
ところがS子は悪性腫瘍にかかり、緊急手術することになりました。
医者は暗い顔して、助からないかもしれないと言っています。
S子は二度とこの美しい山河を見ることはできないかもしれないと思うと、ただただ助かってほしいと祈りました。
S子の入院生活は一か月続きました。
退院してからのS子は見違えるように変わり、嘘をつくこともなくなりました。
幼い子どもたちの世話も積極的にするようになり、学園を卒業して社会人になりました。
このことを通して、辻先生は本当に教えられたそうです。
「私に児童の心に届く教護のあり方を教えてくれたのはS子でした。
いろいろ指導し、面倒見ているようでしたが、心の底からいとおしいとまでは思っていなかったのです。
S子が死に直面して、初めて私の愛情の浅さに気づかされました。
するとS子はみちがえるほど変わっていったのです。
私はやっとわかりました。
私が心の中でS子を問題児だと思っていたので、それが彼女を萎縮させ、荒れさせていたのです。
問題は彼女にあったのではなく、私自身の中にあったのだと深く気づかされました」
「私はS子のいのちを見ていなかった!」と辻先生は気づかれたのでした。
他の子どもに比べて手に負えない、問題ばかり起こして仕方がない、いなくなればいいという見方はすべて「分別」であります。
しかし、その生きているいのちを見るのが「無分別智」といえましょう。
そこで辻先生は次の言葉を残されました。
「「いのちはつながりだ」と平易に言った人がいます。
それはすべてのもののきれめのない、つなぎめのない東洋の「空」の世界でした。
障害者も、健常者も、子どもも、老人も、病む人も、あなたも、わたしも、区別はできても、切り離しては存在し得ないいのち、
いのちそのものです。
それは虫も動物も山も川も海も雨も風も空も太陽も、
宇宙の塵の果てまでつながるいのちなのです。」
というのであります。
この「いのち」を見ていなかったと気がつかれたのです。
この言葉にありますように、「虫も動物も山も川も海も雨も風も空も太陽も、宇宙の塵の果てまでつながるいのち」なのであって、分別することはできないのです。
それでは、分別智はよくなくて、無分別智こそ大事だと考えると、それはまた間違いになってしまうのです。
なぜなら、分別智と無分別智と分けて考えていますので、すでに分別になっているのです。
鈴木大拙先生は、『仏教の大意』の中で
「分別識と般若とを別々に考へて対象的に分離させることは錯誤の本です。
分離の対立は分別識上で云ふことで、般若の無分別智はそこにはないのです。
そこにはないのですが、無分別は分別の中に入り分別は無分別の中に入りて始めて、照用自在の働きがあるのです。
分別だけではどうしても行き詰りになります。」
と説かれています。
なかなか無分別智というのは捉えどころがないのであります。
これだと分かったつもりになると、もう分別になってしまうのです。
横田南嶺