心のおおもとはみな同じ
円覚寺では、紅葉の盛りで、大勢の方がお参りに見えています。
以前コネクション・プラクティスについて書いたことがありました。
「「コネクション・プラクティス」は、「平和の国」 コスタリカの国連平和大学で教鞭をとっていたリタ・マリー・ジョンソンが開発し、 コスタリカの学校教育にも取り入れられている平和な心と温かな関係性を育むスキルです。」というものです。
それは「非暴力コミュニケーション (Non-Violent Communication, NVC)による「共感」と最新の心臓神経学によるハート脳コヒーランスの「洞察」を組み合わせたシンプルで効果的な、心と関係性が整うプラクティスです。」というものであります。
共感と洞察、この二つが重要なのです。
このコネクション・プラクティスの創始者であるリタ・マリー・ジョンソンさんが円覚寺にお越しくださいました。
私も初めてお目にかかることができました。
ちょうど十一月の大摂心のさなかだったので、あまり長い時間はとれなかったのですが、親しくお話させてもらうことができました。
私がお目にかかる前に、円覚寺の黄梅院で、内田一道老師のところで坐禅を体験されたそうなのでした。
内田老師のご指導がよかったようで、この坐禅の体験がとてもよかったと仰っていました。
深い坐禅をして、よかったという体験があれば、そのあとであれこれ言葉でものを言う必要はないと思いました。
坐禅してどのような感想をお持ちですかと尋ねると、解放されて、ふるさとのような、落ち着きどころに帰ったような思いだと仰いました。
来日されて過密なスケジュールの中なので、坐禅の時間は、そのような予定から解放される時間なのかなと思いました。
コネクション・プラクティスでは、コヒーランスという心臓呼吸とも言われるのを実践します。
これは長年ストレスの研究をしてきたハートマス研究所が推奨しているメンタルトレーニング法のひとつだそうです。
まずはじめに両手を胸に当てて、心臓を感じます。
そうして頭にある意識を下におろして心臓に集中します。
そしてまるで心臓が呼吸しているかのようにゆったりと呼吸をします。
五秒吸って五秒吐くくらいでいいそうなのです。
心臓に意識を置いたまま、感謝できる対象を思い浮かべるのです。
家族や友人などまわりにいる人で、自分自身が感謝やいたわり、愛情などを感じる状況を思い浮かべるのです。
それが難しい時には、風景や趣味など自分の落ち着くものを思い浮かべるのです。
そんな状態で今何を知る必要があるか洞察するというものなのです。
心臓に意識を集中させることをどう思うかと聞かれましたので、お答えしました。
禅の修行では、おへその下、丹田に意識を集中させるように教えています。
坐禅の時には、この丹田の位置に手を組んで坐るのです。
しかし、古来丹田には、上丹田、中丹田、下丹田と三つに分ける場合もあります。
上丹田は額のあたりです。
中丹田は胸のあたりです。
下丹田は下腹部なのです。
普段の暮らしでは、頭が中心になってしまっていますので、あえて下丹田に意識を向けて、全体を調整するのだと思いますと答えました。
胸に手を当てるというのも、我々の修行のおいては叉手当胸と言って歩く時、立っている時の作法にあります。
胸に手を当てて歩いたり、立っているのです。
手をブラブラさせることをしません。
この胸に手を当てる叉手当胸にも深い意味があるのだと思います。
普段は、ただ単に作法として胸に手を当てるのですが、やはり胸、心臓を意識しているのでありましょう。
東嶺和尚の『入道要訣』には、私たちは仏さまと同じ真実の心を持っていると説いています。
根本の心は同じなのだ、一つなのだということです。
コネクション・プラクティスを創始されたリタ・マリー・ジョンソンさんとお話しても、生まれた国も異なり、これまで学んできたことも異なりますものの、心のおおもとは一つなのだと感じました。
東嶺和尚の教えでは、その同じ一つの心を持ちながら、外の世界に向かって欲望や執着を起こしてしまって、私たちは、地獄や餓鬼や畜生の世界を作り出してしまっているのです。
そこで、おおもとの心に気づかせる為に、見る者は何者か、聴く者は何者かと参究せよと説くのです。
円覚寺のような大自然豊かな山の中で静かに坐るのが一番なのだとしみじみと感じました。
そのようにして頭を空っぽにして坐れば人は皆根本は同じ、ひとつの心を持っているのだとしみじみ思いました。
横田南嶺