臨済禅師の教え
その前日に札幌に行ってまいりました。
臨済禅を聞く講演会というもので、札幌にある瑞龍寺という臨済宗のお寺の開創百周年記念事業でありました。
そこで「臨済禅師に学ぶ」と題してお話したのでした。
初めて北海道にまいりましたものの、次の日から大摂心でありましたので、講演のみして日帰りの旅となったのでした。
札幌滞在は四時間でありました。
そのうちの九十分は講演なのでした。
一般の方が大勢お見えになっているので、「臨済録から学ぶこと」として
次の三つのことを伝えました。
一 無位の真人 自己の素晴らしさに目覚める
二 随処に主と作る どんなところでも主体性を持つ
三 活潑潑地 いきいきと生きる
ということです。
まずは自己のすばらしさに目覚めるということについて話をしました。
禅の教えというのは、この自己のすばらしさに目覚めることが原点であります。
禅は、達磨大師がインドから中国にお越しになって伝えてくださったものです。
達磨大師が伝えたのは、教外別伝、不立文字と称せられています。
文字では表せない、経典の他に別に心から心へと伝えるものだというのであります。
しかし、決して言葉にできないというわけでもありません。
言葉にしたからといって、必ずしも真実が伝わるわけではないということです。
達磨大師から八代目の祖師に馬祖道一禅師がいらっしゃいます。
この馬祖禅師は、達磨大師がインドから中国に見えて伝えてくださったのは、
「自心是れ仏、此の心即ち仏心なり」ということだと仰せになっています。
自らの心が仏であり、この心が仏の心であるということなのです。
臨済禅師の御修行もまさしくそのひとつの事に目覚められたのでありました。
臨済禅師ほどのお方であっても、お若い頃には「わしも以前、まだ目が開けなかった時には、まっ暗闇であった。光陰をむだに過ごしてはいけないと思うと、気はあせり心は落ちつかず 、諸方に駆けまわって道を求めた。」と仰せになっている通り苦労されたのでした。
それが、
「わしなども当初は戒律の研究をし、また経論を勉学したが、後に、これらは世間の病気を治す薬か、看板の文句みたいなものだと知ったので、そこでいっぺんにその勉強を打ち切って、道を求め禅に参じた。その後、大善知識に逢って始めて真正の悟りを得、かくて天下の和尚たちの悟りの邪正を見分け得るようになった。これは母から生まれたままで会得したのではない。体究練磨を重ねた末に、はたと悟ったのだ。」
と『臨済録』(岩波文庫『臨済録』入矢義高より)書かれている通りの体験をなされたのでした。
それは具体的には、黄檗禅師のところで、三度仏法の根本義はどのようなものですかと問うて、三度とも棒で打たれたという体験でした。
打たれた時には何のことかわからなかったのでしたが、大愚和尚のところで気がついたのでした。
黄檗禅師がお示しくださったのは、実に仏法の端的そのものであったと分かったのでした。
今そうして仏法について質問しているあなた自身、その心こそが仏法のすべてだと直に示してくださったのです。
そうして気がついた臨済禅師は、独自の表現で説法なされました。
「赤肉団上に一無位の真人有り、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ」。
とはもっとも知られた言葉であります。
「この肉体には無位の真人がいて、常にお前たちの顔から出たり入ったりしている。まだこれを見届けておらぬ者は、さあ見よ! さあ見よ!」というのであります。
お互いのこの身に、なんの地位や名誉や財産や学歴などに汚れることのない素晴らしい自分がいるのです。
それは、心であります。
しかもその心は、形がなくて、十方世界を貫いている。眼にはたらけば見、耳にはたらけば聞き、鼻にはたらけば嗅ぐ。口にはたらけば話し、手にはたらけばつかまえ、足にはたらけば歩いたり走ったりするものなのです。
そのことに気がつけば、どんな状況にあってもその場その場で主人公となり、おのれの在り場所はみな真実の場となると説いたのでした。
どんな環境だろうと、それに振り回されるのではなく、その環境を自由に使いこなすのです。そういう者こそが三世諸仏の奥義を体得した人だと説いたのでした。
そんな素晴らしい自己に気がつかずに、
「君たちは、頭陀袋と糞袋を担いで脇みちへ走りまわり、仏を求めたり法を求めたりしているが、現に今そのように求めまわっている当体を君たちは知っているのか。それはぴちぴちと躍動していながら、実は存在の根拠をもたぬ。」と説かれたのでした。
どんな環境にあっても主体性をもっていきいきと生きるというのが臨済禅師の教えなのです。
更に四料揀、四喝などの教えを紹介して、実際に臨済録をもとにして主体的に生きた人の例として、第二代住友総理事の伊庭貞剛や、女性解放運動に尽くした平塚らいてうなどのことを話をしました。
今の時代もたいへんな時であると言えます。
困難な時であり、先行きの見えない閉塞感の強い時であります。
そんな時にこそ、お互いに、自己の素晴らしさに目覚め、主体性を持っていきいきと切り抜けてゆきたいと願いますと、そんなことをお話したのでした。
横田南嶺