やはり戒
玄奘三蔵より六つほど年齢が上なのですが、インドから帰ってきた玄奘のもとで律蔵の翻訳をされています。
この方が「四分律」に基づいて律宗を興されました。
とくに南山律宗といわれます。
日本に律宗を伝えたのが、この方のお弟子のお弟子である鑑真和上なのです。
鑑真和上が奈良時代に日本へお越しになり、奈良の東大寺と下野の薬師寺、それから九州の観世音寺の三つに戒壇を設けました。
これを天下の三戒壇と称されました。
戒壇というのは、戒律の授受を行うために土を築いて設けられた壇のことです。
僧や在家の人が戒を受けることができる場所です。
三戒壇と共に、戒律の根本道場として唐招提寺が建てられました。
ここが律宗の本山です。
律宗の教えというのは大変栄えたのですが、平安中期頃から衰退していきました。
鑑真和上は中国、揚州のお生まれです。
揚州の大明寺におられて、西暦七四二年、天平十四年に日本のお坊さんがそこを訪れて、ぜひ日本へ来てくださいとお願いしました。
鑑真和上は五回、日本への渡航を計画しましたが、妨害されたり難破したりして、とうとう失明までされました。
そんな困難を乗り越えて、七五三年、ようやく日本へお越しになりました。
そこで奈良の東大寺に戒壇を築き、聖武上皇や光明太后に菩薩戒を授けました。
これが律宗の興りです。
さらに八十四人の僧侶に具足戒を授けました。
これによって、日本の僧は正式なお坊さんになったのです。
授戒には十人のお坊さんが必要でした。
三師七証といいまして、戒師、羯磨師、教授師です。
入門希望者の直接指導者である戒和上、希望者が十分な資格を備え犯罪人であるなどの遮難がないかを確認する教授師、儀式の進行役を勤める羯磨師の三人と、証人となる七人の僧侶の立ち会いが必要でした。
これを三師七証と言います。
鎌倉時代に活躍されたお坊さんは、若い頃に東大寺で受戒をし、具足戒を受けている方がほとんどです。
比丘や比丘尼が正式に出家した人ですから、戒律を守らなくてはなりません。
いまでも南方のお坊さんは厳密にこれを守っていらっしゃるのです。
男性のお坊さんは二百二十七条、女性のお坊さんは三百十一条あります。
それから中国、日本に伝わった仏教では、男性は二百五十条、女性は三百四十八条の戒律を守っていたのでした。
この四分律に従って、今も二百五十の戒を守っているお坊さんというのは、極めて稀であろうと思います。
しかし江戸時代の頃には二百五十の戒をきちんと守っていた律宗のお坊さんがいたのです。
その方のために、盤珪禅師のお寺、龍門寺では律のお坊さんたちが修行する場所を設けてあげて、律のお坊さんも一緒に修行をさせていたのでした。
あるとき盤珪禅師は大結制して修行されたときに、律僧が五十三人いたそうです。
その中に比丘二人がいました。
その二人の比丘が盤珪禅師に質問したのです。
二百五十の戒を保っていれば、それで成仏できると思っていますが、これは良いことですか、悪いことですか、と聞いたのです。
この比丘にしてみれば、もちろん内心としては、それはすごいことです、まごうことなく仏になるでありましょう、そう言ってもらいたかったのではないかと察します。
それに対して盤珪禅師は一応「それはよいことだ」と言われました。
ところがです。ここからが盤珪禅師の厳しい説です。
しかし二百五十の戒を守ることは究極ではないというのです。
自分たちは律宗だ、自分たちは律を守っているのだというのを表看板にしておいて、律宗は究極の教えだと思っているのは、他人に自慢するようなことではなく、恥ずかしいことだというのです。
なぜかというと、もともと律というのは、決まりを破るお坊さんがいたから「〜をするな」という形で律ができ、また新たに悪いことをするものが出るので、律が増えていったのです。
悪いことをするものがいるから、取り締まるための罰則として法律ができるのと同じことです。
もともと戒というのは、お釈迦様の最初の頃は、三帰依、仏・法・僧の三宝に帰依するという、それだけでお坊さんになれたと聞いています。
仏に帰依する、法を拠り所にする、僧侶の集まりに帰依する。その誓いを立てるというのが仏教の根本の戒でした。
それからだんだん数が増えていきます。
三聚浄戒というのがあり、五戒があり、十善戒、十重禁戒、四十八軽戒、一番多くなると二百五十戒というふうに、悪いことをする人が出るたびに戒律が増えていった傾向があります。
本当に修行する人は、何も戒律を受けなければいけないことはしないのだと盤珪禅師は仰るのです。
盤珪禅師は「酒を飲まないものに飲酒戒はいらない」と仰いました。
そのとおりです。酒を飲んで周りに迷惑をかけたお坊さんがいたから、飲酒戒が出来たのでしょう。
もっとも飲酒の場合は、よっぱらって人に迷惑をかける以前に、アルコールを体に摂取することによって、精神の集中、瞑想ができなくなります。
しかし、飲まない人に対しては「酒を飲むな」という必要はないのです。
修行者は集団生活ですから、それを営むためには、人の物を盗らないというのは大切な決まりです。
盗まない人には「盗むな」という必要はありません。
つい人のものに手を付ける者がいたから、偸盗戒ができたのでしょう。
普段から嘘をつかないものに「嘘をつくな」という必要はありません。
盤珪禅師は、戒を保つというのは、不心得なお坊さんのために戒を破るなというものだと仰いました。
律宗だから律を守っているのだと、外に看板を掲げるようなことを究極のように思うのは、まるで戒を破る可能性があることを表看板にしているようなものだというのです。
本来の仏心のままでいればいいのに、戒を守るのだというのは、悪いことをするものの真似をするようなものだと仰いました。
守ると意識することは、破るかもしれないという、悪しきものの真似をするようなものだとすれば、律を守っていると看板に掲げることは、はずかしいことではないか、と盤珪禅師は説くのです。
不生の仏心というのは、作り上げたものではなく、もともと本来、生まれながらに具わっているものです。
この不生の仏心のままでいれば、戒を破る心など起こすはずがないというのです。
戒を保つだの、破るだのということはないというのが盤珪禅師の説であります。
このようなお示しを聞いて、二百五十の戒を守っている比丘の二人も、ありがとうございます、そのとおりでございますと、深く合点されたという話です。
律のお坊さんに対しても、盤珪禅師はいつもの不生の仏心を説き示されたことが『盤珪禅師語録』にございます。
盤珪禅師のご高説は、至極もっともなのですが、しかしながら、そこまで徹することの出来ていない私などのような者には、やはり布薩を行い、戒を持つ努力が必要なのだと思います。
横田南嶺