二人の禅僧による盤珪観
三日から五日まで龍雲寺さまでは、盤珪禅師生誕四〇〇年を記念して盤珪禅師と白隠禅師の墨蹟などの曝涼展を開催されました。
曝涼展というのは、これも『広辞苑』に
「夏または秋に、平素収納している図書・衣類・諸道具などを日にさらして風を通すこと」であり、虫干しなのであります。
そして虫干ししているものを多くの方にも見ていただこうというのが曝涼展なのであります。
龍雲寺様には、白隠禅師の禅画や墨蹟、それに盤珪禅師の墨蹟もたくさん所蔵されているのです。
三日の日には、細川晋輔さんが白隠禅師について講演なされたようで、私は五日に盤珪禅師についてお話させてもらったのでした。
盤珪禅師は、元和八年(一六二二)に、現在の兵庫県姫路市網干に生まれています。
父親は、儒者であり医師でもあった方でありました。
二、三歳の頃より、死ぬということが嫌いで、泣いた時でも人が死んだまねをしてみせるか、人の死んだことを言って聞かせると泣き止んだというのです。
この死を恐れる心は、無常を観る心でもあり、菩提心にも通じるものであります。
八、九歳頃になると、隣村の大覚寺に手習いに通わされました。
十二歳の時に、郷塾で『大学』の講義を受けました。
その時に、「大学の道は明徳を明らかにするに在り」の一句を聞いて、「明徳とは何か」大きな疑問を抱きました。
この時の疑問が、生涯をかけて貫く大問題になったのでした。
明徳とは何かを明らかにしようと求めても埒が明かずに、とある儒学者が、そのような難しいことは禅宗の和尚が知っているので、禅僧に問えと言われました。
そこで、近くに禅寺はなく、赤穂にある江西山随鴎寺の雲甫全祥和尚について得度しました。十七歳の時でした。
二十歳にして初めて行脚に出ました。
二十四歳の時に、故郷に帰り、赤穂の北にある野中村の小庵に入ったのでした。
一丈四方の牢屋のような小屋を作り、出入り口をふさいで、ただ食べ物だけを出し入れできるようにして、大小便も中から排泄できるようにして、ひたすら念仏や坐禅に徹したのでした。
あまりに極度に体を痛めて修行したので、お尻が破けて、杉原紙を尻に敷いて、取り替えては坐禅されました。
とうとう病に罹り、血の痰を吐くようになってしまいました。
更に食も喉を通らなくなり、七日程絶食、ついに死を覚悟しました。明徳の解決ができずに死ぬのかと思っていたところ、あるときに「ひょっと一切のことは不生で調ふものを、今日まで得知らいて、さてさてむだ骨を追った事」と気が付いたのでした。
それからの盤珪禅師は、「惚じて身どもは仏語祖語を引いて人に示しもしませぬ。 只人々の身の上の批判ですむ事でござれば、すむに、又仏祖の語をひかうやうもござらぬ」といって、ただ
「仏心は不生にして霊明なものに極りました。 不生な仏心、仏心は不生にして霊明なものでござって、不生で一切が調ひますわいの」と不生の仏心ひとつと説かれたのでした。
そんな盤珪禅師のことについて、現代の二人の禅僧の評論をもとにして講演しました。
お一人は、南禅寺の柴山全慶老師、もうお一人は、円覚寺の朝比奈宗源老師であります。
お二方とも、現代の禅僧といっていいのか、もはや近代の禅僧といっていいのか迷うところではありますが、一応戦後にご活躍されたので、現代の禅僧としておきます。
「惚じて身どもは仏語祖語を引いて人に示しもしませぬ」という盤珪禅師のことを、柴山老師は
「直指の一路に人々をして安心決定せしめんとするのである」と高く評価されています。
盤珪禅師は、仏典や語録の言葉を用いて説かれるということをしなかったのです。
そのことについて、柴山老師は「盤珪のいわるる化度的手段である「身の上の批判」とは、如何なる仏語祖語にもよらず、智解学解にもたよらず「直下に自己の即今事に向つて参究を試みることであり、自己の即今事を通じて、直下に根源的な主体の転換を迫ることである。」」と高く評価されています。
身の上の批判とは、経典の言葉などによらずに、短気でしかたないという方に対して、「今もこゝに短気がござるか、あらば只今ここへ出せ」と鋭くせまり、そして柴山老師の説には、
「更に「何とぞした時そなたがひょっと出すのみだ、我が出かさぬにどこに短気があるものぞ」と急所を突き、人人に分別意識を容るる余地をなからしめらるるのである。この端的な批判に無分別の一境が突如として分別心を粉砕し、新しい自覚となって人格の底から動き出てくることを期せんとするのである。」と説かれている通りなのです。
雷が怖くて仕方ないという方には、驚いたらいいと示された盤珪禅師でした。
そのことについて柴山老師は、
「驚きがそのまま全体作用に受用せらるる時、驚きが不生である。 驚きの外に用心のないのが真の不生でなければならぬ。
「驚きなば、只そのまゝにてよし」という盤珪の批判は、即今に徹して他をかえりみる余地を与えない鋭さを示している。」と仰せになっています。
また「盤珪の「身の上の批判」は機に触れ時に臨み、自己の胸底より流露する全体作用であって、まことに渋滞するところがない。従って一々分別意識の葛藤を切断する妙機をそなえ、常に生命が漲っている。」とか、
「「身の上の批判」こそは、実は概念化した看話の職能を、最も原始的な様態において遂行せんとする、盤珪的活手段であったということができる。而してまたそこに、禅における第一義の生命的役割を果しているものということができる。」と実に高く評価されています。
引用は、柴山全慶老師「盤珪禅に見る「身の上の批判」について」(『仏教と文化:鈴木大拙博士頌寿記念論文集』)
によっています。
それに比べると朝比奈老師は、
「『不生』の一語をもつて表現した大肯定の生活は、大乗思想の極致であり、禪の傳統的思想の大膽な告白である。」と盤珪禅師の境界を高く評価しながらも、
「盤珪の宗旨は、その人格の偉大さと相俟ってああしたすばらしい教化の成績を挙げたのであるが、その一代があれだけ華々しかったに拘らず、その死後に於ける門流の寂寥さはどうか。」
「しかし盤珪が公案を斥けて代りとして提唱した『不生でいよ』と云ふ示しは、一見たやすく見えて實際は公案に参じるよりも遙かに寄りつきにくい、孤危険峻なものであった。」
とその欠点も挙げておられます。
朝比奈宗源老師の「我観盤珪禅」(『盤珪禅の研究』)からの引用です。
盤珪禅師は「只仏心で寝、只仏心で起き、只仏心で住して居るぶんで、平生、行住坐臥活き仏ではらき居て別に子細はござらぬわひの」と仰っていて、それは真実でありますが、
朝比奈老師は、
「晝夜規矩に従つて坐禪したり御経を讀んだりしてをれば、自分でも之が生き佛だと云ふやうな気分もして、それで済んでゐたかも知れない。 はたの者も別に怪しまない。人間にはさう云ふところもあり得るのである。宗教の長い歴史にはさうした生活が宗教生活だと解された時代がかなり多かったであらう。しかし之は極めてあぶなつかしい安心である。それは安定した環境と自分の生活を規定づける日常とが崩れた時、その安心も崩れ行くを免がれない。」
と指摘されています。
そこで朝比奈老師は、白隠禅師に注目されて、
「盤珪の宗旨のやうに平明簡易はよいが突込んでゆく行の力をかいた指導ではとてもいけない。盤珪の宗易は盤珪の時代であつたからこそあれだけの感化を及ぼしたのである。しかしそれも間もなく實際的な迫力のある白隠の宗旨に代られねばならなかつた。」
と説かれているのです。
盤珪禅師は優れた方であることは言うまでもないのですが、その指導方法に問題があったというのです。
そして朝比奈老師が
「公案禪は盤珪によつて否定され白隠によつて昂揚されたが、二國師の宗旨の生命を發揮せんとされた意旨は一である。私は現下の宗門人が盤珪によって鳴らされた警鐘の音に、改めて耳を傾けんことを切望する。
結語として私は云ふ、盤珪が一生の提唱である『佛心は不生にして靈明なもの、不生なる佛心、不生にして一切がととのふ』と云ふ宗旨が全面的に肯定出来ないものは、
未だ白隠の公案禪に参得したものと云ふことは出来ない。又盤珪が徹頭徹尾公案を排斥した精神の会得出来ないものも、未だ公案を用ひて人を指導するの資格がないものであると。」
と示されているのは実に炯眼なのであります。
そのままでよいという不生禅に安住してもいけませんし、公案にばかりかたよってしまってもよくありません。
やはり、悟りは永遠の運動であるという小川隆先生の言葉の通り、これでよいのか、これでよいのかと参究し続けるしかないのであります。
横田南嶺