知ることも無く、得るものも無い
知ることは、分かることにも通じます。
知ることや、分かること、そして自分のものにするということは、一般にはよいことと思われています。
しかし、佛法の世界では必ずしもそうではありません。
たとえば『六祖壇経』の中に、次のような言葉があります。
「一僧師に問うて云く、黄梅の意旨、甚麼人か得たる。師云く、佛法を會する人得たり。僧云く、和尚還って得るや否や。師云く、我佛法を會せず」
というのです。
五祖禅師のもとには、七百名もの高僧がいました。
ある僧が六祖禅師に問いました。
その五祖のもとに集まった大勢の中でだれが五祖禅師の法を受け継いだのかという問いであります。
五祖禅師の教えを受け継いだのは、六祖慧能禅師その人であることは誰しも承知の上での問いであります。
六祖は、佛法を分かった人が得るのだと答えました。
では、あなたは佛法を分かっていますかと問うと、六祖禅師は、私は仏法を分かっていないと答えたのでした。
五祖禅師のもとに集まっていた者たちはみな佛法を分かっていました。
しかし、後に六祖となる慧能禅師だけは、佛法を分かっていませんでした。
山田無文老師は「利口者には衣鉢は伝わらん。七百人の利口者は、五祖大師の気に入らなかった。
佛法を会せざる慧能だけが、五祖の法を嗣がれたのである」と解説しています。
また石頭禅師にも
「曹谿の意旨、誰人か得たる。師曰く、佛法を会する人得。曰く師還って得すや否や。師曰く、我佛法を会せず」
という問答があります。
曹渓の意旨というのは、六祖の禅を言います。
六祖の教えを誰が受けたのかと問われて、仏法を会した者が得るのだといって、あなたは会していますかと問われると、私は仏法を会していないと答えています。
仏法は分からないと答えているのであります。
分かったことが良くて、分からないのが駄目だという考えを持っていては、こういう言葉は分かりません。
鈴木大拙先生は、『東洋的な見方』の中の「東洋文化の根抵にあるもの」に、次のように述べられています。
少し長いのですが、引用します。
「分割は知性の性格である。まず主と客とをわける。
われと人、自分と世界、心と物、天と地、陰と陽、など、すべて分けることが知性である。
主客の分別をつけないと、知識が成立せぬ。
知るものと知られるもの――この二元性からわれらの知識が出てきて、それから次ヘ次へと発展してゆく。
哲学も科学も、なにもかも、これから出る。個の世界、多の世界を見てゆくのが、西洋思想の特徴である。
それから、分けると、分けられたものの間に争いの起こるのは当然だ。
すなわち力の世界がそこから開けてくる。力とは勝負である。制するか制せられるかの、二元的世界である。
高い山が自分の面前に突っ立っている、そうすると、その山に登りたいとの気が動く。いろいろと工夫して、その絶頂をきわめる。
そうすると、山を征服したという。鳥のように大空を駆けまわりたいと考える。
さんざんの計画を立てた後、とうとう鳥以上の飛行能力を発揮するようになり、大西洋などは一日で往復するようになった。
大空を征服したと、その成功を祝う。
近ごろはまた月の世界までへも飛ぶことを工夫している。
何年かの後には、それも可能になろう。
月も征服せられる日があるに相違ない。
この征服欲が力、すなわち各種のインペリアリズム(侵略主義)の実現となる。自由の一面にはこの性格が見られる。」
というのであります。
分かるということは、分けることでもあり、そこから比較が起こり、差別が生まれ、争いになるというのです。
『法句経』の六二番には、
「「わたしたちには子がある。わたしには財がある。」と思って愚かな者は悩む。
しかしすでに自己が自分のものではない。 ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。」
自分のものという執着が迷い苦しみを生み出すのです。
仏法においても同じであります。
自分のものにしたいという思いが苦しみを生みます。
そこで『臨済録』には次の問答があります。
現代語訳を岩波文庫の『臨済録』にある入矢義高先生の訳文から参照します。
問い、「初祖が西からやって来た意図は何ですか。」
師、「もし何かの意図があったとしたら、自分をさえ救うこともできぬ。」
「なんの意図もないのでしたら、どうして二祖は法を得たのですか。」
師、「得たというのは、得なかったということなのだ。」
「得なかったのでしたら、その得なかったということの意味は何でしょうか。」
師は言った、「君たちがあらゆるところへ求めまわる心を捨てきれぬから〔そんな質問をする〕のだ。だから祖師も言った、『こらっ!立派な男が何をうろたえて、頭があるのにさらに頭を探しまわるのだ』と。
この一言に、君たちが自らの光を内に差し向けて、もう外に求めることをせず、自己の身心はそのまま祖仏と同じであると知って、即座に無事大安楽になることができたら、それが法を得たというものだ。」
得たというのは、得なかったということだという言葉に注目したいのです。
得るというのは、なにも得ないことなのです。
なにも得ないことこそが、真に得ることなのです。
般若心経や禅を学ぼうとするときに、この分かろうとするこころや、自分のものにしたいという思いから離れることが大切であります。
そんなことを言われてもなにのことやら分からないと思われるかもしれません。
その分からないこそ、素晴らしいのであります。
横田南嶺