師は身近に – 学び合い、照らし合う世界 –
麻谷(まよく)という僧が、臨済禅師に質問しました。
千手千眼の観世音菩薩は、どれが正眼でしょうか。
千手観音さまといって、千本の手と千本の手に目があるのです。
そのどれが本当の眼でしょうかという質問です。
すると臨済禅師が、逆に麻谷に同じことを問い返しました。
千手千眼の観世音菩薩は、どれが正眼かと。
麻谷は、臨済禅師の衣の袖を引っ張って、臨済禅師を説法の台から引きずり下ろして、自分が、臨済禅師のお坐りになっていた説法の台の上に坐りました。
臨済禅師は、下座から「ご機嫌いかが」と挨拶しました。
麻谷は、何か言おうとしました。
すると臨済禅師は、麻谷を台から、引きずり下ろして自分が再び説法の台に坐りました。
麻谷はさっさと出て行きました。
臨済禅師も座を降りて出て行かれました。
という問答であります。
一見するとなにのことやらさっぱり分からないのであります。
師と弟子とで、お互いに自由に立場が入れ替わるというのが興味深いところなのであります。
教える方と教わる側とで交互に立場が入れ替わっているのです。
教わる方が、教える側の台に上り、教える方が教わる立場に立ってみたのであります。
千手千眼については、『碧巌録』に次のような問答があります。
こちらは、小川隆先生の訳文を紹介します。『語録の思想史』から引用します。
「雲巌が道吾に問う、「千手千眼の観音菩薩は、こんなにたくさんの手眼(掌の眼)を使ってどうしようというのでしょう」。
道吾、「なに、人が真夜中、後ろ手でマクラを探り当てるようなものだ」。
「そうか、分かった」。
「どう、分かったのだ」。
「身体じゅうに眼があるのです」。
「うむ、相当に言い得てはおる。だが、八割がたを言い得たにすぎぬ」。
「ならば、師兄はどうなのです」。
「身体ぜんたいが一箇の眼なのだ」。」
というものであります。
『碧巌録』の通身是れ手眼の公案を雪竇(せっちょう)禅師は、その頌で帝網珠(たいもうじゅ)のたとえを用いられています。
「帝網珠」というのは、帝釈天の善法堂の前で、摩尼珠を網としていて、すべて一つの珠に百千の珠が映し出され、百千の珠がみな一つの珠に現われているというものです。
これはお互いにお互いの光が幾重にも映し合って、 ある時には主となり、ある時には客となり、自由自在であって限りがないのです。
そしてこの帝網珠のはたらきこそが、大悲のはたらきなのであります。
ただ一方が一方を救うというようなものではありません。
救う側と救われる側があるようでは、真の救いではないのす。
共に主ともなり、客ともなるのです。
教える側にもなれば教わる側にもなるのです。
照らす側にもなれば、照らされる側にもなるのです。
無限にお互いあい映し会う世界であります。
慈悲というと、かわいそうだから何とかしてあげようと、一方から一方へと行われるように思いますが、それでは、してあげたんだという自我意識が残ります。
金剛経にも、我も人もない一体となったところがなければ、施すことにはならないと説かれているのです。
お互いがあい関わり合い、お互いがお互いに影響を及ぼし合っている姿、これこそを本地の風光というのであります。
私たちの僧堂でも、古参の者が、新参の者を一方的に指導するという訳ではありません。
新参の者のおかげで、活気が出てきますし、お互いにより一層良い修行もできるのであります。お互いさまなのです。
また何も師家がいて、雲水を一方的に指導しているというものでもないのであります。
お互いが照らしあうのであります。
先日も修行道場で勉強会を行っていて、修行僧達の感想文に学ばされることがありました。
多くはいにしえ先人の教えや、現代でも素晴らしい業績を上げた方についてお互いに学ぶのですが、ある修行僧はいつも一緒に修行している先輩の姿から学ぶことがあると発表してくれていました。
素晴らしい師は、もっとも身近にあると気がついたというのであります。
修行道場のように一日二十四時間ずっと寝食を共にしますので、お互いの欠点もよく映ってしまいます。
特にいつもそばにいる先輩の修行僧というと、むしろ疎ましく感じられます。
私なども不平不満ばかりを抱いていたように思います。
それが、その身近な先輩の素晴らしい一面を見出して学んでいるというのですから、その心に感動しました。
お互いが学び合うのです。お互いが照らし合うのであります。
『碧巌録』の通身手眼の公案には、雪竇禅師が垂示をつけています。
現代語訳を岩波書店の『現代語訳 碧巌録』から引用させてもらいます。
「身体まるごと眼でも見通せず、身体まるごと耳でも聞き切れず、身体まるごと口でも説き切れず、身体まるごと心でも見極めることができない。
身体まるごとはさておき、もし眼がなければどのように見るのか、耳がなければどのように聞くのか、口がなければどのように話すのか、心がなければどのように見極めるのか。
もしここで一筋の道を開くことができるならば、古仏と同じ境地に参入する。参入はともかく、さて、どの人に参入したらよいのか。」
というのであります。
なかなか道というのは体まるごと眼にしても見えるものではありません。
それでも絶えず学ぼうという思いをもっていれば、真理を教えてくれる師は、実はもっとも身近にあるものだったりします。
横田南嶺