三界は安きこと無し
『広辞苑』で「三界」を調べてみると、
仏教語として「一切衆生が輪廻している三種の世界、すなわち欲界・色界・無色界。衆生が活動する全世界を指す。」と解説されて、
「あの男は三界を家として」や「子は三界の首かせ」という用例がございます。
ほかに「三界」を用いた言葉として
「三界火宅」「三界諸天」「三界坊」「三界唯心」「三界流転」「三界に家無し」などがございます。
三界は欲界、色界、無色界からなります。
欲界は、淫欲と食欲がある衆生が住む世界で、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間界とそれに天上界の下の方の六種の世界を言います。
色界は、淫欲と食欲の二つの欲を離れた衆生が住む世界です。
色界は物質的な世界という意味であって、清らかで純粋な物質だけがあるとされます。
欲や煩悩はありませんが、物質や肉体の束縛からは脱却していない世界です。
無色界は、物質的なものから完全に離れた世界です。
物質が全く存在せず、心の働きである精神がある世界です。
仏教では、この三界は皆苦しみの世界と説くのであります。
「三界火宅」は
「苦悩の絶えない凡夫の世界を火焰の燃える居宅にたとえていう語。
法華経(譬喩品)に
「三界無安、猶如火宅」とあるのによる。」
と解説されています。
「三界諸天」は
「三界にある諸種の天。欲界に六欲天、色界には十七天、無色界には四天があるとする。二十八天。」と言います。
「三界に家無し」は「どこにも安住すべき家がない意。」です。
「三界坊」とは「方々をさまよいあるく者。乞食坊主。流浪人。」を言います。
「三界唯心」は
「三界の一切存在は自分の心が生み出した現象で、自分の心の外に三界はないということ。華厳経にもとづく。三界唯一心。三界一心。」ということです。
「三界流転」は文字通り
「三世にわたって因果が連続して迷いつづけること。」を言います。
『臨済録』にも、生きた祖師の心を明らかにせずに、迷ったならば、三界に輪廻して、驢馬や牛の腹に宿るだろうと警鐘を鳴らしています。
また「想念が起こると智慧は遠ざかり、思念が変移すれば本体は様変わりする」として、この三界に輪廻して種々の苦しみを受けると説かれています。
「三界火宅」という、この言葉はよく知られており、『臨済録』にも
「大徳、三界は安きこと無し、猶お火宅の如し。
此は是れ汝が久しく停住する処にあらず。
無常の殺鬼一刹那の間に貴賎老少を揀(えら)ばず。」
と説かれています。
岩波文庫の『臨済録』にある入矢義高先生の現代語訳を参照すると、
「諸君、三界(凡夫の迷いの世界)は安きことなく、火事になった家のようなところだ。
ここは君たちが久しく留まるところではない。
死という殺人鬼は、一刻の絶え間もなく貴賤老幼を選ばず、その生命を奪いつつあるのだ。」
というのであります。
「三界無安猶如火宅」は『法華経』にある言葉であり
そこには、
「如来は已に 三界の火宅を離れて寂然として閑居し 林野に安処せり」
とあって、仏さまは、この燃えさかる家を離れて、静かな林に安らかに住んでいるのです。
そしてその仏さまの目からご覧になれば、
「今此の三界は、皆是れ我が有なり」
というのであります。
この迷える世界は私の家のようなものだというのです。
更に
「其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり」
この世界で苦しんでいる人は、仏さまからご覧になればわが子なのです。
「而も今此の処は、諸の患難多し。唯我一人のみ、能く救護を為す」
といって、この世界は災いが多いので、私一人がそこから救ってあげることができると説かれています。
では、その仏さまとはどこにいらっしゃるのかというと、臨済禅師は、常に、
「ただ汝面前聽法底是れなり」といって
「今わしの面前でこの説法を聴いている君たちこそがそれだ」
と示されたのであります。
臨済禅師は「三界無安、猶如火宅」と示されたあとにも、
「君たちが祖仏と同じでありたいならば、決して外に向けて求めてはならぬ。
君たちの〔本来の〕心に具わった清浄の光が、君たち自身の法身仏なのだ。
君たちの〔本来の〕心に具わった、思慮分別を超えた光が、君たち自身の報身仏なのだ。
君たちの〔本来の〕心に具わった、差別の世界を超えた光が、君たち自身の化身仏なのだ。
この三種の仏身とは、今わしの面前で説法を聴いている君たちそのものなのだ。」
と示されています。
臨済禅師は常に仏さまがどこかにいらっしゃるかなどと、外に求めてはならないと仰せになりました。
あなたの心に具わっている清らかな智慧、無分別の智慧、無差別の智慧こそが仏にほかならないと示されたのです。
三界唯心についても『臨済録』では
「你が一念心、三界を生じて、縁に随い境を被って、分かれて六塵と為る」
と説かれていて、私たちの心が三界を生じていると説いています。
三界というのがどこか外にあるのではなく、お互いの心が作り出しているというのです。
もっとも今日のように科学の知識が発達していますと、地面の底に地獄があるとか、空のずっと上に天上界があって天の神々があるとは受け入れ難いのですが、心が作り出すものと見るならば、受け入れやすいかと思います。
三界は苦しみの世界なのですが、その苦しみはお互いの心が作り出すというのが、仏教の大事なところであります。
火の車造る大工はなけれども己が造りて己が乘りゆく
と昔の人が詠った通りであります。
横田南嶺