あいみたがい – 三種の慈悲 –
ブッダははじめ悟りを開いて、自らその喜びに浸っていて、人にその真理を説こうとされませんでした。
しかし、梵天が三度ブッダにお願いをして、ようやくブッダは、世の人々に対する哀憐の心を起こして自ら悟った真理を説こうと決意されました。
仏教は、実に慈悲の心により始まっていると言えます。
慈悲の「慈」は、「友愛」という意味をもち、他者に利益や安楽を与えることです。
「悲」は、「悲嘆」「呻き」が原意で、苦しみを共にする同感であり、他者の苦に同情し、これを抜済しようとする思いやりを表しています。
仏教では、慈悲には三種類あると説いています。
第一には「衆生縁の慈悲」と言います。
これは人が困っているのを見て何かをしてあげようという心で、惻隠の情に近いものです。
突然幼児が井戸に落ちようとするのをみれば、誰でもはっと驚き深く哀れむ心持ちが起こって助けようとするものです。
第二に「法縁の慈悲」といって、これは、法という真理に目覚めて起こす慈悲であります。
一切は空であるという真理に基づいて起こす慈悲です。
空というのは実体が無いことを言います。
言い換えると、すべては相依相関の関係によって成り立っていることです。
分かりやすく言えば一人では生きられないというのが真理です。
その真理に基づいて行うのが「法縁の慈悲」です。
人は一人では生きられない、他者との関わり合いによってこそ生きられるのですから、自分だけよければいいという考えでは、結局自らも危うくなってしまうことになりかねません。
「幸せはこんなものかな半分こ」という川柳がありましたが、おいしいご馳走でも独り占めするよりは、二人で分け合うことに幸せを感じるものです。
自分のことだけなく、家族を思い、仲間を思う。更には、住む町のことにまで心を広げます。
もっと大きくなれば国のことにまで思いめぐらせることもできますし、もっと大きくこの地球のことにまで思いを馳せることもできます。
この地球が危ないようでは、お互い生存できるはずもないのです。
このような道理をしっかり観じることによって慈悲の心を起こすのが第二の「法縁の慈悲」です。
相依相関の正しい真理を観察してこそ「法縁の慈悲」は身についてくるものです。
喧嘩すなあいみたがいの渡り鳥
という一茶の句があります。
「あいみたがい」は、『広辞苑』には、「(相身互身の略)同じ境遇や身分の者は互いに同情し合い助け合うべきであるということ」、「武士はあいみたがい」という用例があります。
人間の一生は、この世に旅に来たようなものだという見方です。
一生といっても、悠久の歴史の中でみれば束の間のことです。
そしてそれはあたかも旅行中に旅館に泊ったようなものです。
そうであればお互いは、渡鳥のようなものです。
やがて時がくれば去って行くのです。
それが今一時一緒になっている、はかないお互い同志であります。
そのはかなさを知ることが空の悟りであり、お互いに相支え合って生きているのです。
そのような道理を弁えて「喧嘩すな」というのです。
お互いに身を寄せ合っているのですから、慈悲の心を持ちましょうというのであります。
三番目は「無縁の慈悲」であります。
これはもう無条件であり絶対平等の慈悲なのです。
あたかも太陽が森羅万象を照らすようなものです。
なにも施してあげようなどいう思いも持っていません。
ただ照らしているだけで、多くの命が育まれているのです。
野に咲く花のようだと言っても良いでしょう。
なにも人を癒そうなどとは思ってもいないのですが、多くの人に安らぎを与え、生きる力を取り戻させてくれるのです。
江戸期の高僧、至道無難禅師は、
「慈悲の心が熟してくると、慈悲の心を意識しなくなり、慈悲の心を意識しなくなったのが仏だ」と説かれています。
「慈悲して慈悲を知らず」といって、慈悲ということすら意識しないで慈悲を実践しているのが一番の理想です。
十牛図の最後に布袋さんが出てきますが、布袋さんが町に出てきて、にっこり微笑むだけで、まわりのすさんだ人の心を明るくさせてしまうのです。
十牛図には「酒肆魚行、化して成仏せしむ。」と説かれています。
「酒肆」は酒屋さん、「魚行」は魚屋さんです。
酒屋さんに行ったり魚屋さんに行ったりして、そして、そこの人たちと同じように、時にはお酒でも酌み交わしながら自然と応対をしていくうちに「化して成仏せしむ」。
知らず知らずのうちに、周りの人たちにも本来の心に気づかせていくのだというのです。
これが「入壥垂手」です。
更に「直に枯木をして花を放って開かしむ。」と詠っています。
これはまさしく花咲か爺さんの世界です。
この現実の世界に還っていって、枯木に花を咲かせましょうということです。
心が枯れてしまっている人、打ちひしがれている人たちに、花を咲かせてあげましょう、という無縁の慈悲の姿でもあります。
という次第で、慈悲のはじまりは「衆生縁の慈悲」であり、これは、かわいそうだと思って手を差し伸べることです。
しかし、それだけは相手の為にならないこともあります。
そこで「法縁の慈悲」が必要なのです。
世の中には、単独で成り立つものはない、相依相関によって成り立っているという真理をよく観察して、関係性を保つように智慧をはたらかせなければなりません。
そのように「法縁の慈悲」を修めて、更に慈悲すら意識しない「無縁の慈悲」が理想です。
野に咲く花のように、その場にいるだけでまわりに安らぎを与えることができる。
これが慈悲の究極であります。
まず独りよがりにならないように、お互いに「あいみたがい」ということを意識して暮らしましょう。
横田南嶺