諸法は空相 – 平等と差別 –
「舎利子よ、この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず」
という一節がございます。
ここのところの解釈について、龍雲寺の細川晋輔さんと須磨寺の小池陽人の寺子屋ラジオ【はじめての般若心経】第24回「不垢不浄 (ふくふじょう )」で、興味深い話をなさっていました。
「諸法空相」について、小池さんが話をしたいことがあるといって、次のように語ってくださっていました。
文字起こししたものを拝読させてもらいます。
「色即是空、空即是色の部分は、仏さまの空の教えを、平等観によって、平等的にみた教えだと思っていて、
平等観というのはどういうことかというと、仏も自分も本来一緒であるということ、あるいはどんな人も自分の中に仏性、仏の性質を宿しているというような、仏も我も一緒であることを説いている部分であると思っていて、
色即ち空、空即ち色、色というのを自分と置き換えて、空というのを仏さまと置き換えていただくと分かりやすいのですけれども、もう自分が即ち仏であり、仏が即ち自分であるというような、平等観を説いていると思うのです。
そのあとに、諸法空相というところでは、どういう風に空をとられているかというと、平等観に対して差別観だと思っていて、
差別というのは仏教用語で、差別と書いて「しゃべつ」と読んで、「差別反対」の「差別」とはちょっと意味が違うんですが、どういう意味かというと、差別観というのを端的に言うならば、自分の不徳を反省し、仏に絶対なる超越性を認めていくことかなと思っているのです。
もっと分かりやすく言うなら、自分、凡夫と仏というのはやはり違う存在、超越した存在として認める、自己を反省するということの考え、これは自分も仏であるという平等観と差別観とは全く逆のことを言っているように思われ、矛盾ではないかと思われるのですが、この両方が相互に矛盾なくはたきあうところに仏道があるということを言っているのではないかと思う。
もちろん仏道というのは、仏になるために、我々は修行するのです、仏になるための修行をして最終的に仏であることに気づいてゆくことだと思うのです。
仏になるというのが差別観だと思うのです。
自分はまだまだ至らないという慚愧の念を起こしながら、精進に精進を重ねてゆく、仏になるプロセスで、最終的に仏である、自分はもともと仏であったということを認めてゆく、これが平等観だと思うのです。
この二つが矛盾しないということが重要なのではないかと思ったのです。」
と語ってくださっていました。
そういう見方があるのだと勉強になりました。
私などは、「諸法空相」というと、一切の生滅、去来の相がないので、平等だとばかりとらえていたのでした。
そこで小池さんに、ここの解釈について、教えていただいたのでした。
その時に、参考になる本として、成田山新勝寺から出ている『般若心経講話』というのを教わりました。
神崎照恵先生という方が書かれた本です。
この本では、いろんな方の解釈を参照しながらも、やはり弘法大師の解釈を中心にして解説してくださっています。
その本を読んでみるとなるほど、そのような解釈が弘法大師の解説によるものだと分かりました。
神崎先生のご著書には、
「是諸法空相、不生不滅不垢不浄不増不減」の一節を弘法大師は「絶」と名付けられたそうなのです。
どういうことかというと、
「絶とは断及び下の替え詞也」といって、この六不の教えは、一切の相対観念を越えた絶対真如を明かにすると共に、相対観念に伴う迷妄を断ずるので絶と名づけ」たということなのです。
更に
「現象の俗世界を超越して高く輝く真如が、凡夫の無明の暗い陰を照らし出すことによって、世間虚仮の自覚を深めると共に、真如の光へと向上せんとする、発心修行の道心が起ってくるというのであります。
そこで、凡即是仏の真如の内在性の上に立つ平等観と、自己の虚妄不徳を深く反省して、真如の絶対なる超越性を認める差別観とが、相互に照合媒介されて弁証法的に統一されるところに道心が生れ、修行への第一歩が踏み出されることがよく解ります。」
と解説されているのであります。
私たちは、生じた滅した、汚れた清らかになった、増えた減ったという差別の世界にさまよっています。
不生不滅不垢不浄不増不減というのは、その凡夫の世界を超越した仏の世界だというのであります。
単に平等観だけではいけないのであって、その超越性を認める差別観があってこそ、修行しようという道心が生まれるというのです。
小池さんが、「自分の不徳を反省し、仏に絶対なる超越性を認めていく」というところなのです。
こうした弘法大師のご高説を学んで、我々の禅の教えでは、どうも超越性よりも内在性を重んじて、超越したものをあまり認めない傾向があると気がつくことができました。
日常の中にこそ真如が輝いていると説くのです。
禅では、俗世間を超えて真如が高く輝くということよりも、日常の暮らしの中に、真如がありありと輝くということを強調しています。
ただ気をつけないといけないのは、平等観にかたよって、我と仏と一体のところだけに重きを置くと、精進努力に欠けてしまいがちであります。
黄檗禅師は、仏について求めず法について求めず僧について求めずと言いながらも、ただ礼拝をなさっていたことを思いました。
平等観と差別観とふたつ相俟って修行していくということを細川さんと小池さんのラジオによって学ばせてもらいました。
このままで仏だという安心を持ちながらも、更になお高きを求めて修行してゆくのが仏道であります。
細川晋輔さんと小池陽人の寺子屋ラジオ【はじめての般若心経】は、お二人が分かりやすく般若心経を説かれています。
まだお聴きでない方はどうぞ聴いていただきますようにお薦めします。
横田南嶺