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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.10.16
今日の言葉

三人寄れば…

「三人寄れば文殊の知恵」とはよく耳にする言葉です。

『広辞苑』には、

「愚かな者、平凡な者も三人集まって相談すれば文殊菩薩のようなよい知恵が出るものだ。」

という意味が書かれています。

三人というのは、いろんな意味があって、

「三人寄れば公界(くがい)」という言葉もあります。

これは「人が三人集まれば表向きの場所とみるべきである。「三人寄れば人中」とも。」

という意味であります。

また「三人旅の一人乞食」というのもあります。

これは「三人で事をする場合、二人対一人になりがちで、一人になった者は仲間外れになるということ」だそうです。

「三人虎を成す」というのもあって、これは

「[戦国策(秦策)](三人が虎が出たと言えば本当のことになる意)根拠のない噂も、大勢の人が言えば本当になるということ。」

なのだそうです。

三人が大勢になるもとなのだということであります。

今日我々僧侶は、一人でも僧と言いますが、これは元来、サンガといって集団、僧団のことを言いました。

岩波書店の『仏教辞典』では

「サンガ(僧)の運営や出家者の行動は律蔵によって定められているが、完成した段階の律蔵によれば、<僧>は四人以上の構成員で成り立ち、結界(けっかい)(sima)によって規定される」

と解説されています。

この記述では四人以上となっています。

一人や二人ではいけないのであります。

先日は湯島の麟祥院で私たち僧侶の勉強会が開かれました。

この会についてはたびたび触れていますが、もう七年前から始めたものです。

発起人というか、言い出したのが私なのであります。

当初は駒澤大学の小川隆先生に、『臨済録』を講義してもらって学ぶ会でありました。

今は更に竹村牧男先生に華厳の講義をしていただく講座も加わって、小川先生には『宗門武庫』という書物を講義してもらっているのであります。

なかなかこういう勉強会も継続は難しいところがありますが、どうにか何名もの熱心な和尚様方がお集まりくださって継続しています。

四人以上なら「サンガ」として成り立つというので、四人を割らなければなんとか継続して学ぼうと思っています。

先日の小川先生のご講義では、

『論語』述而第七にある、

「子曰く、三人行えば、必ず我が師有り。其の善き者を択びて之に従い、其の不善なる者にして之を改む 、と 」

という言葉が、出てきました。

真浄克文禅師が仲間と三人で行脚していた頃の話なのです。

とある禅僧のもとを訪ねたところ、その禅僧から

「三人でともに行けば、その中に必ず一人指導者たるべき者がいるはずだ、その一人の智者とは 如何なる者か? 」と問われて ふたりの僧は何も言えなかったのですが、真浄禅師はすかさず一喝したという問答なのでした。

ここで「三人行えば、必ず我が師有り」という言葉は、

元来論語では「「三人でともに事をなせば、そこに見習うべき良い手本(人物ないし事例)と改めるべき悪い手本が見出され、必ずや自身の向上に資するものが得られるという趣旨」だと小川先生は解説してくださいました。

たしかに岩波文庫の『論語』にも金谷治先生が

「わたくしは三人で行動したら、きっとそこに自分の師をみつける。善い人を選んでそれに見ならい、善くない人にはその善くないことを〔わが身について〕直すからだ。」と訳されているとおりなのです。

しかし、禅の問答として取り上げられるときには、

「三人でともに行けば、その中に必ず一人指導者たるべき者がいるはず」という解釈になるというのです。

同じ言葉でも解釈の仕方で意味が異なるというのであります。

そこから『論語』のように短い断片的な言葉をどう解釈するかは、註釈によって大きく異なると親切にご説明してくださいました。

そこで例に出してくださったのが、

「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり。」という論語の言葉でした。

漢字で書くと、たったの七文字(朝聞道夕死可矣)なのです。

岩波文庫の『論語』には、

「朝に正しい真実の道が聞けたら、その晩に死んでもよろしいね」

と訳されています。

小川先生も一般にこの言葉は

「朝、道を聞くことができたらその日の夜に死んでも悔いは無い。」と訳されて、

「人生の意義は道を体得するにあり、その一点にかかっているというのが朱子の註による理解」だと示してくださいました。

朱子よりも古い漢や魏の時代の註釈、旧註を紹介してくださり、

「旧註は、「その日の朝、世の中で道が行われていると、聞くことができたなら、その日の夜、死んでも悔いはないんだけどな……」と読ませる。

新注では、道を聞くということは自分自身道を体得するという意味にとっていて、旧註では、世の中で道が行われている、社会で道が行われているということを耳にするという意味に取っている。

新注は前向き、積極的、道を体得しなければ死んでも死にきれない、道を体得したらその日の夜に死んでも悔いは無い、頑張ろうという前向きな解釈であり、

旧註は「ああ、朝世の中で道が行われているということを聞けたら、その日の夜に死んでも悔いはないんだけどなあと、これは世の中に道がおこわなれていることが聞こえてこないことを嘆いた言葉であるとしている。」

と解説してくださいました。

解釈によって大きく意味が異なるのであります。

こうして綿密に註釈を参照しながら学ぶことを教わりました。

私などは、いつも岩波文庫の『論語』を参照し、あとはせいぜい漢文大系にある『論語』くらいしか見ていませんので反省しました。

小川先生が、旧注については 、『論語注疏訓読』(野間文史)明徳出版社をご紹介してくださいましたので、少々高い本ですが購入することにしました。

朱子の『論語集注』は、学生時代にゼミで勉強したことを思い出しました。

三人寄れば文殊の知恵と言いますが、会が終わったあとも、小川先生が問題提起された、ある言葉について、大乗寺の河野老師と小川先生と私とで、ああでなかろうか、こうではなかろうかと話し合っていました。

これは、三人のうちのお二人小川先生と河野老師とは実に文殊の知恵なので、私はそのご高説を承るばかりなのであります。

ともあれ四人いればサンガとなるわけで、私どもの勉強会も、細々ではありますが、倦まず弛まず、竹村先生、小川先生という当代一流の先生のご講義を拝聴し学び続けようと思っています。

 
横田南嶺

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