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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.10.11
今日の言葉

無事ということ – 求めぬいてこそ –

十月五日の毎日新聞の余録に、「無事是れ名馬」という言葉がありました。

「「無事之名馬」は競馬ファンだった作家の菊池寛が色紙によく書いた言葉だった。

禅宗の名言「無事是貴人(これきにん)」をもじった。

典拠は人間本来の姿に徹することこそ貴いという意味だが、馬主でもあった菊池は馬の無事を祈る思いを込めた」

と書かれています。

そこから更に「プロ野球の生涯記録を見ると、「無事これ名選手」の思いを強くする。」と書かれて、金田正一さんや王貞治さんの生涯記録に触れています。

そしてこれからもプロの選手たちの息の長い活躍を祈るという文章でした。

「無事是れ名馬」とは、多少の能力が劣ってもけが無く走り続けるのが名馬という意味でしょう。

菊池寛がよく書いた言葉らしいのですが、誰が使い始めたかについては諸説あるようです。

禅語の「無事是れ貴人」をもじったものらしいのですが、「無事」とは何かを『広辞苑』でまず調べてみました。

「無事」は

「①取り立てて言うほどの変わったことのないこと。

㋐事変のないこと。危険・災害・大過などが起こらない状態。平穏。

㋑つつがないこと。健康なこと。

②自然のままで何も人為を加えないこと。

③ひまなこと。なすべき事がないこと。」

という意味が書かれています。

しかしながら、禅語で用いる「無事」はもっと深い意味があります。

岩波書店の『仏教辞典』で調べてみると、

「無事」は

「<むじ>とも読む。

依り所となる実体がないこと。

また、とりたてて事件のないこと。安穏であること。

あるいは、することがないこと。ひまなこと。働きがないこと。無用であること。
これらの意味については否定的な意味で用いられる場合と、肯定的な意味で用いられる場合があり、特に禅宗では<無事>を一切の作為を離れた自然なあり方として尊ぶが、これには<無事>を是とした老荘思想の影響が見られる。」

と書かれています。

「禅宗では<無事>を一切の作為を離れた自然なあり方として尊ぶ」というのであります。

入矢義高先生の『禅語辞典』には

「無事」は

「①なすべきことは何もない。また、人為の入りこみようもない平穏静謐な世界のありよう。
② 「さあ、もう用はない。」上堂説法のしめくくりにいう言葉。
③よせば良いのに。わざわざ。」

という意味が書かれています。

禅語で用いるのは「人為の入りこみようもない平穏静謐な世界のありよう」というところでありましょう。

「無事是れ貴人」は臨済禅師の言葉であり、臨済禅師の教えは馬祖禅師の教えがもとになっています。

馬祖禅師の教えについて、駒澤大学の小川隆先生は、「即心即仏」「作用即性」「平常無事」という三つの言葉で表わしてくださっています。

先生の書かれた『禅思想史講義』(春秋社刊)から引用させてもらいますと、

「一「即心是仏」は、自らの心がそのまま仏であるということ。

二「作用即性」は、自己の身心の自然なはたらきはすべて仏性の現れであるということ。

三「平常無事」は、人為的努力を廃して、ただ、ありのままでいるのがよい、ということである。」

というのです。

そこで更に小川先生は、

「すなわち、自己の心が仏なのであるから、自身の営為はすべてそのまま仏作仏行にほかならず、したがって、ことさら聖なる価値を求める修行などはやめて、ただ「平常」「無事」でいるのがよい、と。

要するに、あるがままの自己の、あるがままの是認、それが馬祖禅の基本精神であった。」

と分かりやすく解説してくださっています。

この教えを受け継いだのが臨済禅師です。

外に向かって求める心がやんだのを臨済禅師は「無事」と表現したのでした。

禅文化研究所から出されている山田無文老師の『臨済録』には「無事是れ貴人」について次のように提唱されています。

「無事是れ貴人

何かを求め、何かをありがたがっておるうちは、自分が足らんからじゃ。行くところへ行き着いておらんからじゃ。

天下に求めるものは何もない。

腹が減って食う物がなければ、飢え死にすればいい。死ぬまで寝ておったらいい。人間、なかなか死ねるものじゃない。

無事是れ貴人だ。」

というのです。

仏法という尊い宝のような教えが、どこか遠くにあるのではありません。

今この話を聞いているあなたこそが仏なのだと臨済禅師は説き続けられました。

そう気がついて外に求める心が無くなったのが無事なのです。

そして仏とは無事の人だと臨済禅師は説かれました。

お互いの心こそが仏であり、私たちが見たり聞いたりする働きの中に仏が発揮されているという教えなのです。

だから、わざわざ仏になるための修行は必要ないと馬祖禅師も臨済禅師も説かれました。

もうそのままで仏だというのです。

見たり、聞いたり、ご飯を食べたり、日常のすべてが仏としての本来の働きの現れにほかならないというのです。

これは求めて求めぬいた末に至る境地だと思います。

これを何の努力もせずにただ鵜呑みにしてしまうと大きな間違いとなります。

入矢義高先生の『禅語辞典』には

「無事の会」という言葉があって、その解説には

「仏法は修むべきなく証すべきなし(馬祖や臨済の常套語) と思いこんで、何もしなくてよいと収まりかえっていること。

宋の大慧はこれを「無事甲裏に坐在す」(無事という楼閣の中でアグラをかく)と呼んだ。」
と解説されていて、

さらに「無事禅」を「なすべきことは何もないと収まりかえった「平常無事」の教条禅。」と説明されています。

これらは悪い意味で使われている「無事」なのです。

なかなか、難しいところです。

ただ安閑として無事というのではなく、求めて求めて求めぬいてこその「無事是れ貴人」なのであります。

 
横田南嶺

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